大江戸妖怪かわら版 天空の竜宮城 香月日輪 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)春爛漫《はるらんまん》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)大江戸|城《じょう》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)ここ[#「ここ」に傍点]では ------------------------------------------------------- [#挿絵(img/04_000.jpg)入る] 〈帯〉 亀ではなく、 人魚につれられて、 空に浮く竜宮城に来てみれば—— 痛快大江戸ファンタジー 〈カバー〉 妖怪だらけの大江戸で、かわら版屋として働く少年・雀。 ちょっとした人助けが縁となり、竜宮へ行くことに。 ただしそこは海の中ではなく空に浮かんでいるという。 足のある(!)天空人魚に道案内されて、着いた先は……。 [#挿絵(img/04_001.jpg)入る]  大江戸妖怪かわら版  天空の竜宮城  香月日輪  理論社  大江戸妖怪かわら版 天空の竜宮城  もくじ  風にうそぶき、月をもてあそぶ  水鳥、桜に舞う  薫風吹きて、夏来る  天より落ち来る者あり  天空の竜宮にて  雀、神と会う  神守り、姿を現す  向こうにも荒神様 [#地から1字上げ]装画 橋 賢亀 [#地から1字上げ]装幀 郷坪浩子 [#改ページ]  なんとのぅ、いい陽気だわいェ。  コレサ、花見へでも出かけようじゃあないか。  春爛漫《はるらんまん》の大江戸《おおえど》は、見渡《みわた》す限《かぎ》りの桜《さくら》の海。あちらこちらの水辺の岸に花びらを舞《ま》い散らし、土手ではズラリと咲《さ》き競《きそ》い、林や森では銀杏《いちょう》や松の枝《えだ》にも薄紅《うすべに》の花びらが咲き乱《みだ》れる。はて? 「やあ、今年《ことし》は妖蝶《ようちょう》の数が多いのう」 「ホンニ。松に桜とは、風流《ふうりゅう》風流〜」  松の緑を飾《かざ》る桜の花の妙《みょう》を、愛《め》でる側も鬼面《おにづら》と化け猫《ねこ》の異形《いぎょう》の者。  でも、ここ[#「ここ」に傍点]ではそれが普通《ふつう》。  大江戸《おおえど》は大江戸でも、ここはまた別の世界。  魔都《まと》———、大江戸。  昼空を龍《りゅう》が飛び、夜空を大蝙蝠《おおこうもり》が飛び、隅田川《すみだがわ》には大蛟《おおみずち》、飛鳥山《あすかやま》には化け狐《ぎつね》、大江戸|城《じょう》には巨大《きょだい》な骸骨《がいこつ》�がしゃどくろ�が棲《す》む、妖怪《ようかい》都市である。  とはいえ、世は長らくの天下|泰平《たいへい》。桜《さくら》の花に化ける妖蝶《ようちょう》も、鬼面《おにづら》や化け猫《ねこ》や、一ツ目や三ツ目の奇奇怪怪《ききかいかい》な住民たちも、いたって平和に暮《く》らしている。  偽物《にせもの》もずいぶん混《ま》じってはいるが、とにかく桜が咲《さ》き乱《みだ》れ、陽気はいいし、風は彩《あや》なす桜真風《さくらまじ》。大江戸は本格的な花見の季節を迎《むか》えた。大江戸っ子たちは酒と肴《さかな》を山ほど抱《かか》え、一足のばして飛鳥山なんぞへ桜見物に出かける。野掛《のが》け——である。 [#改ページ] [#挿絵(img/04_007.png)入る]   風にうそぶき、月をもてあそぶ 「ピクニックだ———っ!」  両手に弁当《べんとう》を持ってそう叫《さけ》ぶのは、大首《おおくび》のかわら版《ばん》屋の記者[#「記者」に傍点]|雀《すずめ》。  まだほんの少年のような顔をしてはいるが、これでも「大首のかわら版屋に雀あり」と言われる腕《うで》っこき。子どもだガキだと文句《もんく》を言わせぬ仕事ぶりが評判《ひょうばん》である。  そして雀は、この妖怪《ようかい》だらけの世界にいるただ一人《ひとり》の、ただ[#「ただ」に傍点]の人間。異界[#「異界」に傍点]より落ち来た者である。  ただの偶然《ぐうぜん》か、はたまた何の神のいたずらか、まったく別の人生を歩むことになった雀は、たくさんの妖《あやか》したちに助けられ、泣いたり笑ったりしながら季節を重ねてきた。 「春———……。春だ……」  花霞《はながすみ》にけむる空を、雀《すずめ》は見上げる。 「ここに残ることを決めたのが、春だった」  今年《ことし》もまた、そう思う。  忘《わす》れられない色がある。轟々《ごうごう》と舞《ま》い散る桜吹雪《さくらふぶき》、天空の庵《いおり》の庭に射《さ》す光……初めて美しいと思った。それが、「お前が生きている証拠《しょうこ》だ」と教えられた。今また花|萌《も》ゆる季節を迎《むか》え、桜の薄紅《うすべに》がいっそう胸《むね》に迫《せま》る思いの、雀三度目の春である。  その雀の肩《かた》を、銀色の毛の前足がポンと叩《たた》いた。 「天気はいいし、風は微風《びふう》。出かけるには最高の日だね」  そう言いながらパイプの煙《けむり》を吹《ふ》かすのは、銀色|猫《ねこ》のポー、雀の同僚《どうりょう》。大首《おおくび》のかわら版《ばん》屋の文芸|担当《たんとう》記者である。雀よりもちょっと低いぐらいの背丈《せたけ》。二足歩行の足元は革《かわ》のブーツ。チェック柄《がら》のハンチング帽《ぼう》と揃《そろ》いのチョッキを身に着け、パイプを吹かすこの化け猫は、どうやら「外地」からの「渡来人《とらいじん》」らしい。とはいえ、雀には「外地」とはどこのことかまだわからない。雀にとって、まだまだ大江戸は謎《なぞ》だらけだ。  謎といえば、雀とポーの横でうんうんとうなずいている白い塊《かたまり》。こちらも雀の同僚、絵師《えし》のキュー太。酒樽《さかだる》に白い布《ぬの》をかぶせたような真っ白けの身体《からだ》に細い手。目と口にいたっては、雀がいたずらで描《か》いたもの。ところがそんな口でもできたとたん、しゃべれるようになってしまった。それも言葉の書かれた細長い紙を口から吐《は》くのである。キュー太がなんなのか、なぜそんなしゃべり方なのか、まったくわからない。  この面々の雇《やと》い主《ぬし》というのがまた複雑怪奇《ふくざつかいき》。真《ま》っ赤《か》な首だけの大首の親方は、いつもかわら版屋の奥座敷《おくざしき》の、一番|奥《おく》の壁《かべ》から現《あらわ》れる。壁一面の大きな顔、金色の燃《も》えるような両目。どこからどう見ても、醤油《しょうゆ》で煮《に》た煮卵《にたまご》に黒い手足を生やした「手下」を大勢従《おおぜいしたが》えて、雀たちをまとめて一|呑《の》みにしそうな口から雷鳴《らいめい》のような怒鳴《どな》り声を上げる。雀など、何度|吹《ふ》き飛ばされそうになったことか。それでも雀《すずめ》にとっては、良き親代わりの一人《ひとり》に違《ちが》いなかった。  親方はいないが「大首《おおくび》のかわら版《ばん》屋ご一行様」、本日は連なって野掛《のが》けに飛鳥山《あすかやま》まで、ぶらりぶらりの道中である。かわら版屋の向かいの飯処《めしどころ》「うさ屋」で、特製《とくせい》の花見|弁当《べんとう》も作ってもらった。長火鉢《ながひばち》も持ってゆくので、酒は熱燗《あつかん》、お茶は淹《い》れたてを楽しめる。  桜花《さくらばな》ははらほろと、妖蝶《ようちょう》はひらひらと、春の陽射《ひざ》しの中を舞《ま》い踊《おど》る。桜並木《さくらなみき》に射《さ》し込《こ》む光も、桜色に染《そ》まっていた。 「なんて綺麗《きれい》だ……」  雀は、思わずため息する。自分の頭にも、ポーの銀色の毛の上にも、そしてキュー太の真っ白の身体《からだ》にも、桜の花びらが舞《ま》い落ちる。今日《きょう》は長屋に帰ってからも、きっと身体中から桜の香《かお》りがすることだろう。 「お〜い、ここだ、ここだぁ」  大きな桜の下で、桜丸《さくらまる》が雀たちに手を振《ふ》っていた。桜の枝《えだ》に幕《まく》を張《は》り、花見の場所取りをしていてくれたのだ。  桜丸は、赤い長い髪《かみ》、白い肌《はだ》。赤っぽい目をした、雀より少し年上の青年。雀のいい兄貴《あにき》分である。いつも身に纏《まと》う白地に鮮《あざ》やかな桜柄《さくらがら》の着物が、今日はことのほか華《はな》やかに見える。 「やぁ、桜丸とはよく言ったもンだ。いっそ艶《あで》やかだねぇ」  ポーが喉《のど》の奥《おく》でクックと笑った。雀も笑った。  しかし、女のような美形に見えても、桜丸のその白い身体には、魔人《まじん》の入れ墨《ずみ》が刻《きざ》まれている。 「入れ墨」は、「魔人」の証《あかし》。鬼道《きどう》すなわち妖術《ようじゅつ》を使う魔人は、大江戸《おおえど》っ子にとっても不思議な存在《そんざい》だ。時に尊敬《そんけい》され、時に恐《おそ》れられ、大江戸|城《じょう》の要職《ようしょく》に就《つ》いているかと思えば、町中をただフラフラしていたりする。  桜丸は、まさに後者。いつも何をしているのかわからない。見かける時は、酒を呑《の》んでいるか、的場《まとば》で遊んでいるかのどちらかだった。また、その呼《よ》び名を「風の桜丸《さくらまる》」といい、跳《は》ねるように空を飛ぶことでも知られていた。 「場所取り、ありがとうよ、桜丸」  茣蓙《ござ》の上に、さっそく弁当《べんとう》を広げる。 「なぁに。遊びの手間は惜《お》しむめぇ」 「違《ちげ》ぇねぇ!」  目の前には、桜の園《その》。空は青く、その青と、木々の緑と桜が彩《いろど》る景色《けしき》は絶品《ぜっぴん》。  あちらこちらで幕《まく》を張《は》り、茣蓙を敷《し》き、宴《えん》もたけなわに盛《も》り上がる大江戸《おおえど》っ子たち。大きいの小さいの、三つ目あり獣面《けものづら》あり。その賑《にぎ》やかな三味《しゃみ》の音、笑い声。時折桜の枝《えだ》をゆらしては、何かの精《せい》が風に乗って通り過《す》ぎる。目をこらせば、古木の下での宴席には、似《に》たような白髭《しろひげ》をたくわえた年寄《としよ》りが上座《かみざ》で酒を呑《の》んでいた。きっと桜の木の精に違《ちが》いない。雀《すずめ》は、すっかり嬉《うれ》しくなる。 「さぁさぁさぁ、俺《おれ》らも始めようぜ!」 「エエ日和《ひより》だ。めでてぇな!」 「桜も満開で言うことなし」  皆《みな》で赤い杯《さかずき》を掲《かか》げ、まず一杯目《いっぱいめ》は桜の木に捧《ささ》げた。 「うわぁ、こっちも綺麗《きれい》だ! 花畑みたいだ」  雀は、うさ屋|特製《とくせい》の花見の重を開け、歓声《かんせい》を上げた。赤いのは紅梅餅《こうばいもち》、黄色いのはかすてら玉子、白いのはユリ根を蒸《む》した春がすみ。蒸しがれいに小鯛鮨《こだいずし》。ひらめ、さより、わかめは酢味噌《すみそ》でいただく。他《ほか》にも、海老《えび》、銀杏《ぎんなん》、蒲鉾《かまぼこ》、薄皮餅《うすかわもち》に花びら餅。 「鮨から甘味《かんみ》まで! たまらーん!」  雀は小鯛鮨にかぶりついた。 「こっちは、白魚の蕎麦《そば》仕立てだ。粋《いき》だねぇ!」  桜丸は、大根の細切りと和《あ》えた、茹《ゆ》でた白魚を蕎麦と同じ汁《しる》ですする。 「温かいものもあるよ。ほら、苺汁《いちごじる》」  ポーが碗《わん》の蓋《ふた》を開けると、車海老の団子《だんご》汁から、ダシのいい香《かお》りが立ち上った。 「海老団子《えびだんご》を苺《いちご》に見立ててるんだな。可愛《かわい》いなぁ!」  飲み食いをしないキュー太(薦《すす》められれば酒だけは呑《の》む、いや、吸《す》う?)は、桜《さくら》に降られながら気持ち良さそうに空を見上げていた。 「桜酒《さくらざけ》たぁ、たまんねぇ。春だねぇ」  桜の花びらの浮《う》いた酒を、桜丸《さくらまる》はぐいぐいと飲み干《ほ》した。 「いいよねぇ、春は。大江戸《おおえど》はどの季節もいいけど」  ポーの笑顔《えがお》に、雀《すずめ》も頷《うなず》く。  雀たちの宴席《えんせき》の前を、華《はな》やかな着物を纏《まと》った若《わか》い女たちが通った。それは、雀から見れば犬面《いぬづら》あり虫化けありの、女かどうかもわからぬ一行だったが、花のような着物を纏っているからだけでない若い女の雰囲気《ふんいき》が伝わってきた。 「ひょっとして、これが波動ってやつなのかな?」 と、雀《すずめ》は思った。この世界での「美」とは、桜丸のような、雀にもわかる人型の美形ということでもなく、その者が「美しいという波動を発してる」かどうかなのだという。雀には、まだよくわからない。 「花衣《はなごろも》かぁ。春らしくていいねぇ」  ポーがパイプを吹《ふ》かした。  年頃《としごろ》になった女たち[#「になった女たち」に傍点]が、花見に出かける際《さい》に着る着物を「花衣」という。これには、年頃の女たちのお披露目《ひろめ》の意味がある。 「社交界デビューというやつだネ」  渡来人《とらいじん》のポーは、雀にもわかる単語をよくしゃべる。  花衣の女たちの後に、艶《あで》やかな着物の中年増《ちゅうどしま》が続いた。 「俺《おれ》ぁ、こっちの方がイイ」  桜丸が、こそっと言った。 「ははぁ、これは何かのお稽古《けいこ》の師匠《ししょう》とお弟子《でし》一行だネ」 「なるほど!」  女たちだけの花見の宴《うたげ》も多かった。男たちの宴席《えんせき》から拍手《はくしゅ》が起こる。 「景物《けいぶつ》、景物」 「これはこれはとばかり、花の山!」  花見客に声をかけられ、花衣《はなごろも》の女たちは嬉《うれ》しそうに顔を赤らめていた。  後から後から舞《ま》い散る桜《さくら》に降《ふ》られながら、雀《すずめ》は紅梅餅《こうばいもち》に続いて花びら餅を頬張《ほおば》る。赤《あか》ん坊《ぼう》のほっぺのようにやわらかい餅と、甘《あま》い餡《あん》と牛蒡《ごぼう》の塩味、そして桜の香《かお》りが口いっぱいに広がった。 「♪あの花が 咲《さ》いたそうだが羨《うらや》まし さっと雨もつその時は わしも後から咲くわいな」  あちこちから三味《しゃみ》と唄《うた》が聞こえる。踊《おど》ったり笑ったりのドンチャン騒《さわ》ぎ。でも、不思議と空気はとてもおだやかで、まるで、ひたりひたりと潮《しお》が満ちているかのように雀は感じた。そのゆるゆるとしたうねりの中を、花びらがたゆたっている。隣《となり》に座《すわ》ったポーと桜丸《さくらまる》の話し声が耳に心地好《ここちよ》い。ポーの煙草《たばこ》の香りが、かすかに鼻先をくすぐってゆく。キュー太の身体《からだ》にもたれて、雀はしみじみと思った。 「ああ……いい感じだなぁ。俺《おれ》、今あったかいもんでいっぱいだ……」  この世界に来て、雀は時折こんな風に感じる。胸《むね》に真っ黒な嵐《あらし》を抱《かか》え、心のネジが始終ギシギシと音をたて、暗がりで寒々と暮《く》らしていた以前の自分が、嘘《うそ》のようだった。  こんな時、ふと心の隅《すみ》に、昔の自分が立っていたりする。この頃《ごろ》は、そんな自分をよく見ることができるようになった。少し前までは、目を背《そむ》けたものだ。 「寒かったなぁ……」  元の世界でも季節は巡《めぐ》ったが、雀は「寒さ」しか思い出せなかった。 「雀?」  ポーの緑色の瞳《ひとみ》が覗《のぞ》き込《こ》んできた。 「お湯が沸《わ》いたよ。お茶のおかわり、いるかイ?」 「いるいるー!」  淹《い》れたてのお茶の上に、桜の花びらがふわりと浮《う》かんだ。桜茶《さくらちゃ》は、雀の身も心もいっそう温めた。  そこへ、百雷《ひゃくらい》と蘭秋《らんしゅう》が揃《そろ》って現《あらわ》れた。 「よう、やってるな」  黒い狼面《おおかみづら》の百雷は、八丁堀《はっちょうぼり》の同心。鋭《するど》い金色の目をした狼の顔と、精悍《せいかん》な人型の身体《からだ》をしており、その首元にチラリと魔人《まじん》の入れ墨《ずみ》が見える。  いつもは羽織袴姿《はおりはかますがた》の百雷だが、今日《きょう》は非番《ひばん》らしく渋《しぶ》い紺《こん》の着流し姿だった。その紺地に桜《さくら》が散り、粋《いき》な柄《がら》に見える。 「お招《まね》き、ありがとうござんす」  大江戸三大座《おおえどさんだいざ》の筆頭《ひっとう》、日吉座《ひよしざ》の看板《かんばん》役者、蘭秋。白狐《びゃっこ》の変化《へんげ》した人型の姿は妖艶《ようえん》の一言に尽《つ》き、「芍薬《しゃくやく》、牡丹《ぼたん》、百合《ゆり》、蘭秋」と讚《たた》えられる美貌《びぼう》の持ち主である。 「いよっ、ご両人!」 「しっぽりと!!」  雀《すずめ》たちが声をかける。百雷は頭をかいて苦笑いし、蘭秋は艶然《えんぜん》と微笑《ほほえ》んだ。  変化した姿が女のように細面《ほそおもて》の美形で、また女形役者である蘭秋は、常《つね》に女の格好《かっこう》をしている。今日も長い黒髪《くろかみ》は後ろで束《たば》ね鼈甲《べっこう》の櫛《くし》を挿《さ》し、白い肌《はだ》の目元には赤い紅《べに》、浅葱地《あさぎじ》に鴇色《ときいろ》の華紋《かもん》の着物に鬱金《うこん》の細帯と、なんとも艶《あで》やかだ。だが、男である。にもかかわらず、蘭秋は百雷に片思い中。二人が並《なら》ぶと、まさに「しっぽりとした仲」に見える。 「お似合《にあ》いなんだけどなー」  雀は苦笑いした。 「天ぷらとお鮨《すし》を持ってきやした」  蘭秋が、漆塗《うるしぬ》りの重を開ける。 「握《にぎ》りじゃねぇかェ! こいつぁ、ありがた山の椎《しい》の木|山椒《さんしょう》!」  桜丸《さくらまる》は大喜びした。 「天ぷらは揚《あ》げたてでござんす」 「天ぷらと鮨って、メッチャ合うんだよなー。いただきまーす!」  そう言う雀とともに、蓮根《れんこん》の天ぷらにかぶりつく百雷を見て、ポーが言った。 「鮨も天ぷらも庶民《しょみん》の食べ物なんだけど。好きだよねぇ、八丁堀の旦那」 「身分の高ェ奴《やつ》らと侠《いなせ》な漢《おとこ》は喰《く》わねぇってか? 益《えき》もねぇ。こんなに美味《うめ》ぇのによ!」  百雷《ひゃくらい》は、いかにも美味《うま》そうにサクサクといい音をたてて、蓮根《れんこん》の天ぷらを噛《か》み砕《くだ》いた。 「女子どもが食べないというのもウソでござんすよ。うちの女の子たちはみんな大好き。お鮨《すし》も野菜の天ぷらも魚の天ぷらも。練り物もね」 「練り天って、発祥《はっしょう》は大浪速《おおなにわ》なんだってねぇ。すっかり大江戸《おおえど》に定着したねぇ」 「まぁ、もちろん、俺《おれ》が一番好きななぁ、コイツだが」  百雷が開けた重には、桜餅《さくらもち》がぎっしり詰《つ》まっていた。皆《みな》、大笑いした。 「真打登場《しんうちとうじょう》!」 「綺麗《きれい》だぁ!」 「�下戸《げこ》もまた ありやと墨田《すみだ》の桜餅�ってなあ!」  笑う百雷の膝《ひざ》を、蘭秋《らんしゅう》が突《つ》いた。 「エエも。そんなところが可愛《かわい》らしゅうて憎《にく》らしい」  蘭秋の流し目に、百雷の目尻《めじり》も思わず下がる。桜丸《さくらまる》が手をひらひらさせた。 「コレサ、よそでやってくンな。冷やが燗《かん》にならあ!」 「アハハハハ!」  蘭秋と桜餅が加わって、ますます春らしく、華《はな》やかに宴《うたげ》は続く。雀《すずめ》たちは、心ゆくまで呑《の》み、喰った。 「はぁあ〜、腹《はら》いっぱいになっちまった。俺、腹ごなしにチョット歩いてくらぁ。キュー太、一緒《いっしょ》に行かねぇか?」  宴席《えんせき》を離《はな》れる雀とキュー太に、ポーが声をかけた。 「泥酔者《よたんぼう》が多いから気をつけるんだよ」 「アイアーイ」 [#改ページ] [#挿絵(img/04_023.png)入る]   水鳥《すいちょう》、桜《さくら》に舞《ま》う  桜の枝《えだ》に張《は》った縄《なわ》に春小袖《はるこそで》をかけて幕《まく》とし、お茶とお菓子《かし》を楽しむ一行や、俳句《はいく》を読む者たちもいた。 「風流《ふうりゅう》、風流」  雀《すずめ》は、帳面に筆を走らせながら歩いた。キュー太もきょろきょろと、あちこちを観察している。  家族同士の集まりでは、父親《てておや》同士は酒盛《さかも》り、おっ母《かあ》らはおしゃべり、そして子化けたちは、化け合いをしていた。  女たちだけの酒宴《しゅえん》、それを眺《なが》めながら酒を呑《の》む男たち、綺麗《きれい》どころをつれた金持ちたち、貧乏人《びんぼうにん》もそれなりに。皆《みな》、大江戸《おおえど》の春を満喫《まんきつ》していた。 「やー、なんかもー、力いっぱい春が来た! って感じだなぁ〜」  皆の様子を書き留《と》める雀も、楽しくて嬉《うれ》しくて仕方がなかった。  ところが。ハメを外す者は、どこにでもいるもので。 「お許《ゆる》し下さい!」 と、困《こま》りきった声がした。 「ム!」  雀は、声のした方向へ飛んで行った。 「どうか、お許し下さい!」  懇願《こんがん》していたのは、雀と同じぐらいの少女と、その祖母《そぼ》らしき者。 「ちょイと酌《しゃく》をしろと言ってるだけじゃあねぇか。そウ、震《ふる》えるこたぁねぇだろう、こんにゃくの幽霊《ゆうれい》じゃあるめぇし」  ゲラゲラと、下卑《げび》た笑い声が上がった。少女の細い腕《うで》をわっしと掴《つか》んでいるのは、蛇面《へびづら》の大男。酌《しゃく》だけではすまさぬことが、口許《くちもと》でいやらしく蠢《うごめ》く二股《ふたまた》の舌《した》が物語っている。  怯《おび》える女たちの様子を面白《おもしろ》そうに眺《なが》めている蛇男の連れどもも、屈強《くっきょう》そうな異形《いぎょう》の衆《しゅう》ばかり。しかも男たちの背後《はいご》には、三[#「三」に傍点]|抱《かか》えほどもあろうかという大|酒樽《さかだる》が、山のように積み上げてある。どうやら、相当の酒豪《しゅごう》の集まりらしい。蛇男は、その筆頭《ひっとう》のようだった。まさに、大蛇《うわばみ》。 「どうか、どうかお許《ゆる》し下さい。孫の粗相《そそう》はこれこの通り、婆《ばば》が謝《あやま》りますれば。どうか孫だけはご勘弁《かんべん》を」  地面に頭をこすりつける祖母《そぼ》を無視《むし》して、蛇男は少女を引き寄せ、その手を赤い舌でチロチロと舐《な》めた。少女は真っ青になって悲鳴《ひめい》を上げた。男たちが大笑いした。 「やめろよ! 嫌《いや》がってんだろ!」  雀《すずめ》が叫《さけ》んだ。男たちが、ぎろりと目を剥《む》く。だが、蛇男はまるで動じなかった。 「ナニ、このあまっちょうが大事《でぇじ》な酒を蹴《け》っ飛ばしてこぼしゃあがってな、おイタを許す代わりに酌をしろと言ってるだけだ。大《てぇ》したことじゃねぇ。引っ込《こ》んでろ、小僧《こぞう》」 「こんだけ酒があんだから、ちょっとこぼれたぐれぇでガタガタ言うねぇ。男が廃《すた》るぜ」 「何ぃ〜?」  男たちが殺気立った。 「ガキが! 料《りょう》られてぇらしいぜ」 「粋《いき》がりやがって。わきめぇやがれ!」  蛇男は、高笑いした。 「大した生利《なまり》をききやがる。恐《おそ》れ入谷《いりや》の鬼子母神《きしもじん》だぜ!」 「こんな真《ま》なっ面《つら》、ひっぺがしてやらにゃあ立ち切れやせんぜ、兄《あに》ィ」 「酒がまずくなる!」  大男たちが雀を囲んだが、雀は一歩も退《ひ》かなかった。 「まぁ、待ちねぇ。こんな小僧が、一丁前に女を守ろうってンだ。侠《きゃん》じゃねぇか」  蛇男の金色の眼《め》が、キラキラと光っている。 「そこまで肝《きも》っ玉《たま》が座《すわ》ってンなら、小僧《こぞう》。女の代わりにてめぇがケジメをつけてみせろや」  蛇男《へびおとこ》は、手下に顎《あご》をしゃくって言った。 「長柄《ながえ》に酒入れろ」 「がってん!」  ドン! と、雀《すずめ》の目の前に置かれたのは、酒で満々に満たされた巨大《きょだい》な長柄だった。杯《さかずき》に酒を注ぐ長柄は雀も知っているが、こんな巨大なものは見たことがない。まるで一斗樽《いっとだる》だった。そう思って見|渡《わた》せば、この酒席にある杯は、特大のものばかりだ。雀は、嫌《いや》な予感がした。 「ここぁ、酒の席だ。ケジメも酒でつけようや。樽《たる》一|杯《ぱい》たぁ言わねぇ。この長柄、見事|呑《の》み干《ほ》しゃあ、手を打ってやるぜ」 「やっぱり……!」  ここになみなみと入っている酒はいったいどのぐらいだろう? 一斗だとして、十|升《しょう》。それ以上かも知れない。まず、人間が飲める量ではない。 (この大蛇《うわばみ》ヤロ〜。わざと仕掛《しか》けてきやがったな)  雀は蛇男を睨《にら》み据《す》えた。男たちは面白《おもしろ》そうに笑っていた。  蛇男に腕《うで》を掴《つか》まれたまま、少女は雀を見て泣きそうになっていた。祖母《そぼ》はオロオロしていた。 (どうなっても、後には引けねぇ)  雀は、長柄に手を伸《の》ばそうとした。その時、 「待ちねぇ、雀!」  騒《さわ》ぎをききつけて集まり出した野次馬《やじうま》の中に、百雷《ひゃくらい》が立っていた。その後ろには蘭秋《らんしゅう》が。いち早く、キュー太が知らせに走っていたのだ。 「旦那《だんな》!」  百雷は、野次馬の中から進み出た。 「いけねぇ、兄《あに》ィ。魔人《まじん》ですぜ」  手下の一人が、こそっと言った。蛇男《へびおとこ》は、面白《おもしろ》くなさそうに口許《くちもと》を歪《ゆが》めた。 「ちっ」  別の手下が、蛇男に耳打ちした。 「……八丁堀《はっちょうぼり》だと?」  蛇男の顔が、いっそう歪んだ。  百雷《ひゃくらい》は男たちを見回し、おだやかに言った。 「ガキをからかうたぁ、悪洒落《わるじゃれ》が過《す》ぎやしねぇか。せっかくの花見の座《ざ》が醒《さ》めるってもンだ。ここいらで止めにしようや」  百雷の金色の眼《め》と、蛇男の金色の眼がぶつかり合う。  蛇男は、少女を乱暴《らんぼう》に突《つ》き放した。雀《すずめ》は、少女と祖母《そぼ》をかばって立った。 「ああ、イヤダイヤダ。ももんがぁは、どっちでぇ?」  蛇男は大声を上げ、大げさに頭を振《ふ》った。 「こんな花見の席にまで、十手《じって》ばかりか鬼道《きどう》まで振りかざす気かイ、旦那《だんな》ぁ? 呆《あき》れ蛙《かえる》のほっかむりだあ! 飛鳥山《あすかやま》は無礼講《ぶれいこう》のはずじゃあ、なかったのか、コンチクショー!」 「コレサ、そうわめくなイ。何もお縄《なわ》にしようってンじゃあねぇよ」  そう言う百雷を無視《むし》して、蛇男は続けて言った。 「そりゃあ、上魔《じょうま》の方々から見りゃあ、俺《おれ》らぁ、酒を呑《の》むしか能《のう》のねぇ下魔《げま》だ。だからって、いつもいつもバカにされたんじゃ立ち切れねぇぜ! 八丁堀だからってだけじゃあ飽《あ》き足らず、その上鬼道にモノを言わせりゃあ、そりゃあ何でも思いのままだろうねぇ。エエ、皆《みな》の衆《しゅう》よ? 俺《おれ》らはこの旦那《だんな》に、十手と鬼道と、両方で踏《ふ》みつけにされてるようなもんだぜ、そう思わねぇか!」  野次馬《やじうま》がざわめいた。雀は、ピンときた。 (この大蛇《うわばみ》ヤロー、わざと被害者《ひがいしゃ》ぶってやがる! 旦那を悪者にする気だ!) と、その時、 「その汚《きた》ねぇ口を閉《と》じな、ヘビ野郎!!」  あたりに響《ひび》き渡《わた》った怒号《どごう》の主は、蘭秋《らんしゅう》。目が吊《つ》りあがっていた。  雀《すずめ》も百雷《ひゃくらい》も仰天《ぎょうてん》した。 「た、太夫《たゆう》……?」  蘭秋《らんしゅう》はズイズイと進み出てくると、蛇男《へびおとこ》の前で仁王立《におうだ》ちした。 「蘭秋……」 「蘭秋太夫だ!」  野次馬《やじうま》から声が漏《も》れた。蛇男|一党《いっとう》も驚《おどろ》いた。 「歌舞伎《かぶき》役者の?」 「三座|筆頭《ひっとう》の一枚|看板《かんばん》!」  蛇男を睨《にら》み据《す》える顔も美々《びび》しい、当代|随一《ずいいち》の売れっ子役者の登場に、あたりが騒然《そうぜん》となる。 「コリャコリャ……こんな目の前で人気役者を拝《おが》めるなんざ、恵方果報《えほうかほう》。さすが、まぶしい面《つら》だねぇ。とても男たぁ、思えねぇや」  蛇男は、ニヤニヤしながら丸い顎《あご》をこすった。 「穏便《おんびん》にと気を遣《つか》って下すった百雷様のお心遣《こころづか》い、よくも足蹴《あしげ》にしてくれたねェ」 「へっ。ももんがぁにゃ違《ちげ》ェねぇだろう? 上魔《じょうま》で十手《じって》持ちなら、隅田川《すみだがわ》で屋形船《やかたぶね》でも出してろってンだ。こんなとこに面出さねぇでよ。目障《めざわ》りだぜ」  蘭秋の目がますます吊《つ》りあがり、口許《くちもと》が歪《ゆが》んだ。雀はゴクリと唾《つば》を飲んだ。蘭秋の様子が、いつもと全く違《ちが》う。こんな男らしい[#「男らしい」に傍点]蘭秋は初めて見る。 「今さら十手と上魔のカサぁ着て、ヤボを言うンじゃあるめぇ? 小僧《こぞう》に酒を呑《の》ませるのがイヤなら、そのあまっちょう差し出せや。酌《しゃく》をさせるだけだって言ってンだ。それとも、あんたが相手をしてくれるかい、太夫? 俺《おれ》らぁ、その方がいっそ嬉《うれ》しいけどねぇ」 「ギャハハハ、そいつぁいいや!」  男どもは大笑いした。  バッ!! と、浅葱《あさぎ》の着物の裾《すそ》をはだけると、そこに露《あらわ》になった白い足で、蘭秋は長柄《ながえ》をガンと踏《ふ》みつけた。 「この蘭秋太夫に喧嘩《けんか》売ってンのかイ? その喧嘩、買った!」 「太夫《たゆう》!?」  雀《すずめ》と百雷《ひゃくらい》は飛び上がり、野次馬《やじうま》の女たちからは、嬉《うれ》しそうな悲鳴が上がった。 「蘭秋《らんしゅう》様——っ!」  雀と百雷が呆気《あっけ》にとられている間に、蘭秋は巨大長柄《きょだいながえ》を手に取ると、満々の酒をゴッゴッゴッと呑《の》み干《ほ》した。 「うおぉぉ———っ!!」  周りから大歓声《だいかんせい》が起こる。 「じ、十|升《しょう》を一気呑み……!」  雀は顎《あご》が外れそうになった。  蘭秋は、酒に濡《ぬ》れた口許《くちもと》を赤い舌で舐《な》めた。野次馬《やじうま》からまた悲鳴が上がる。蛇男《へびおとこ》も驚いたが、すぐに大笑いした。 「この俺《おれ》と呑み比《くら》べしようって気かイ、太夫? こいつぁ、とっけもねえ!」  手下どもも腹《はら》を抱《かか》えた。 「面白狸《おもしろだぬき》の金つばやきでさぁ!!」 「へそが茶ぁ沸《わ》かすぜ!」  蘭秋は、薄《うす》ら笑いする蛇男の額《ひたい》に、ゴリッと長柄を押《お》し付けた。 「ヘラヘラ笑うなぁ、勝負に勝ってからにしなんし。アタシに負けたら、もしやの末まで酒の席でのおイタはナシにしてもらいやすぜ。それを破れば、その時や、百雷様にお縄《なわ》にしてもらいやす。牢屋《ろうや》の中で酒も呑めずに干《ひ》からびるが良ござんすよ!」  蛇男と蘭秋の間に、火花がはじけ飛んだ。 「大盃《おおさかずき》持ってこい!」  蛇男が叫《さけ》んだ。  それは、蛇男の背後に立てかけてあった。あまりの大きさに盃《さかずき》に見えなかった。大盃は、大男二人がかりで運ばねばならない代物《しろもの》だった。野次馬たちも仰天《ぎょうてん》した。 「すげえ!」 「あれ一口に、どんだけ酒が入るんだえ?」  手下どもが、大酒樽《おおさかだる》から大盃《おおさかずき》へドッドッと酒を注ぐ。なみなみと注がれた酒は、二十|升《しょう》はあろうか。蛇男《へびおとこ》は、ガッと盃を抱《いだ》くと、ごくごくと呑《の》み干《ほ》した。野次馬《やじうま》がどよめく。  ぷはぁと息を吐《は》いて、蛇男は言った。 「さすがは大江戸《おおえど》一の看板《かんばん》役者。面《つら》がまぶしいだけの女形かと思っていたが、こんな侠《きゃん》たぁ、知らなかったぜ。面白《おもしれ》ぇ。俺《おれ》が勝ったら、あンたが酌《しゃく》をしてくれンだろうなぁ、太夫《たゆう》? 一枚看板の女形に酌をさせるなんざ、末代までの語り草よ!」  蛇男は、二股《ふたまた》の舌《した》をいやらしくチロチロ動かした。 「コレサ、太夫。こんなバカなこたぁ、よしねぇ」 「太夫、いくらなんでもムチャだよ」  雀《すずめ》も百雷《ひゃくらい》も蘭秋《らんしゅう》を止めたが、蘭秋は首を振《ふ》った。 「ヨタ者には、ヨタ者の流儀《りゅうぎ》でケリをつける他《ほか》ありんせん。もとより、雀サンや女の子をいじめたこと、百雷様を悪《あ》しざまにしたこと、この蘭秋、腸《はらわた》が煮《に》えくり返っておりやす」 「太夫……!」  雀は、そう言う蘭秋の漢《おとこ》っぷりに惚《ほ》れ惚れした。しかし、百雷はそれどころではなかった。 「お前《め》ぇに何かあったらどうすんだエ。俺《おれ》ぁ、世間に顔向けできねぇぜ」 「ご心配には及《およ》ばず」  蘭秋は、不敵《ふてき》な笑みを浮《う》かべた。それから、満々と酒の注がれた大盃を前に、片肌《かたはだ》を脱《ぬ》ぎ、片膝《かたひざ》をついた。片肌は薄紅《うすべに》の襦袢姿《じゅばんすがた》、片膝は着物の裾《すそ》から露《あらわ》になり、野次馬は大喜びした。 「なんとのウ、満桜《まんざくら》に負けぬ艶姿《あですがた》よ!」 「蘭秋様……素敵《すてき》!」 「盃《さかずき》は手下に持たそうか、太夫?」  蛇男は笑った。蘭秋は鼻で笑い返し、大盃をがばりと抱《かか》えた。 「おおおーっ!!」 「ウソ……! 酒で満々の、あんなでっかい盃を……!」  雀《すずめ》は度肝《どぎも》を抜《ぬ》かれた。さらに、 「うおおおーっ!!」  野次馬《やじうま》から、いっそうすごい歓声《かんせい》が上がった。この細い身体《からだ》のどこに入るのかと目を疑《うたが》うくらい、蘭秋《らんしゅう》はあっという間に大酒を呑《の》み干《ほ》したのだ。 「ウソ!!」  雀は、今度は腰《こし》が抜《ぬ》けそうになった。  少し驚《おどろ》いた様子の蛇男《へびおとこ》にニヤリと笑いかけ、蘭秋は言った。 「勝負!」  蛇男の目元が歪《ゆが》んだ。 「注《さ》せ!」 「なんだか騒《さわ》がしいねぇ。雀は大丈夫《だいじょうぶ》なのかなぁ」  宴《うたげ》の席で、ポーは一人でパイプを吹《ふ》かしていた。 「ポー!」  ポーの頭の上から声がした。桜《さくら》の枝《えだ》にふわりと飛んできた桜丸《さくらまる》が叫《さけ》んだ。 「滅法界面白《めっぽうけぇおもしれ》ェことになってんぜ!」 「どうしたんだい? 雀は?」  桜丸は、遠くを指差《ゆびさ》して言った。 「雀は大丈夫だ。それより、蘭秋が大大蛇《おおうわばみ》相手に呑み合戦《くらべ》をおっ始めたんだ!」 「はぁ? いったいどういうことだい、それ?」  桜丸を見上げたポーの緑の目で、黒目がきゅっと縮《ちぢ》んだ。  蛇男が大盃《おおさかずき》を空けるたび野次馬から歓声が上がったが、蘭秋の時はその倍ほどの拍手《はくしゅ》と歓声と悲鳴が起こり、大地が揺《ゆ》れるようだった。 「お見事!」 「あの大大蛇《おおうわばみ》に一歩も引けをとらねぇなんざ、てんこちもねぇ! 震《ふる》えがくらあ」 「蘭秋《らんしゅう》様……なんて素敵《すてき》」 「こんなすげぇ呑《の》み合戦《くらべ》が見られるたぁ、絵が付いたってもンだ。ありがた山のほととぎすだぜェ」  ハラハラと見守る雀《すずめ》と百雷《ひゃくらい》をよそに、野次馬《やじうま》はヤンヤヤンヤの盛《も》り上がり。  大江戸《おおえど》に呑《の》み助《すけ》は多い。酒屋には、三|斗《と》、六斗、十斗の酒樽《さかだる》が売り物として当たり前のように置かれていて、六斗の大樽をひょいと肩《かた》に担《かつ》いで持って帰る呑み助の姿《すがた》も、雀はよく見かけた。 「そういうのに慣《な》れたつもりだったけど……この二人《ふたり》は、ハンパねぇよ!」  湖でも呑み干《ほ》しそうな勢いで大盃《おおさかずき》を空けてゆく蘭秋と蛇男《へびおとこ》に、雀は冷《ひ》や汗《あせ》がたれっぱなしだった。 「あの……」  おずおずと雀に声をかけたのは、あの少女と祖母《そぼ》だった。 「ほンに申し訳《わけ》ありません。こんなことになってしまって」  頭を下げる二人に、雀は言った。 「ああ、いや。気にするこたぁねぇよ。大丈夫《だいじょうぶ》さ。ここにいるのが怖《こわ》かったら、もう行っていいぜ。送ろうか?」  少女は、首を振《ふ》った。よく見れば、雀と同じ人型でも、やはり少し違《ちが》う。大きな瞳《ひとみ》は紺色《こんいろ》。透《す》き通るような色白で、髪《かみ》は茶色がかっている。そして、指の間にわずかに水掻《みずか》きがあった。 (水魔《すいま》か?) と、雀は思った。 「大江戸の桜《さくら》があんまり見事で、うろうろ見て回っていたばっかりに。婆《ばば》の不注意です」 「あ、大江戸の人じゃないのか」 「へぇ。田舎《いなか》から参りました」  二人《ふたり》はまた頭を下げた。 (そういやぁ……着物が……)  雀《すずめ》は、二人が着ている着物を、少し奇妙《きみょう》に感じた。どちらも女性なのに、膝下《ひざした》の丈《たけ》の着物の裾《すそ》から、雀が付けているものと同じものがチラリと見えている。 (女が半|股引《ももひき》をはいてるのは珍《めずら》しいよなぁ)  そして、二人が履《は》いている草鞋《ぞうり》は、足にしっかり固定された「結《ゆ》わいつけ草鞋」だった。これは、旅人が履くものである。 「雀!」  ポーがやって来た。 「ポー」 「いったいこれは何の騒《さわ》ぎなんだい?」  大盃《おおさかずき》が空けられるごとに、野次馬《やじうま》の歓声《かんせい》が大きさを増《ま》してゆく。  事情を聞いたポーは、盛大《せいだい》に頭をひねった。 「いきさつはわかったけど……。それにしてもまぁ、あんな大大蛇《おおうわばみ》相手に呑《の》み合戦《くらべ》とは。太失《たゆう》が水鳥《すいちょう》とは知らなかったなぁ〜」 「水鳥って?」 「大酒呑みのことを水鳥というんだよ。酒は、|※[#「さんずい」、第4水準2-78-17]《さんずい》に酉《とり》と書くだろう?」 「へぇえ! そうなんだ!」  雀は、さっそく帳面に書き込《こ》んだ。 「まことに、まことに申し訳《わけ》ありません」  少女と祖母《そぼ》は、深く深く頭を下げた。 「悪いのはあの蛇野郎《へびやろう》なんだから、気にしちゃダメだよ」 「雀の言う通りだよ」  雀とポーの笑顔に釣《つ》られ、少女も少し微笑《ほほえ》んだ。 「あたし……夏初《なつは》」 「俺《おれ》は、雀。こっちは、ポーだよ。俺たち、大首《おおくび》のかわら版《ばん》屋なんだ」 「よろしく、夏初《なつは》ちゃん」 「おおお!!」 と、ひときわものすごいどよめきが起こった。  蛇男《へびおとこ》が盃《さかずき》をすべらせ、落としてしまったのだ。半分以上こぼれた酒に濡《ぬ》れて、蛇男はあきらかに動揺《どうよう》していた。その動揺が、たちまち手下どもにも伝わる。 「あ、兄《あに》ィ!?」 「あ……ありえねぇ。この俺《おれ》が、呑《の》み合戦《くらべ》で負けるなんざ……ありえねえ!」  蘭秋《らんしゅう》は、フンと鼻を鳴らした。 「注《さ》し直してもらいやしょう。良しかえ?」 「あ、当たり前《め》ぇだ!」  そう叫《さけ》んだものの、蛇男の呑み方は、がくんと衰《おとろ》えた。一方の蘭秋はといえば、相変わらず、まるで空気を呑むような呑みっぷり。ますます野次馬《やじうま》を喜ばせる。 「すげぇよ! ものすげぇ!」 「こりゃあ、勝っちまうぜ!? あの大大蛇《おおうわばみ》に勝っちまうぜ、オイ!」  野次馬どもの興奮《こうふん》で、あたりの空気が波打つようだった。百雷《ひゃくらい》は頭を掻《か》いた。 「太夫《たゆう》が勝つなぁいいとしても、勝ったら勝ったで、とんでもねぇ大すっちゃんになりそうだなぁ」  雀《すずめ》とポーも、息を呑んで勝負を見守っていた。桜丸《さくらまる》は、桜の木の上で酒を片手に面白《おもしろ》そうに見物していた。  そして、その時はきた。  蛇男は、口に運ぶ途中《とちゅう》に再《ふたた》び盃を落とし、酒をすべてこぼしてしまった。 「兄イィ!」  手下どもの絶叫《ぜっきょう》の中、蛇男はぶるぶる震《ふる》えながら両手をついて言った。 「ま……まいった!!」 「うおおおおお———っ!!」  怒濤《どとう》のような歓声《かんせい》に、桜の森が震えた。妖蝶《ようちょう》がわっと飛び上がる。雀もポーも飛び上がった。  蘭秋《らんしゅう》は、ゆらりと立ち上がると、大盃《おおさかずき》を高々と掲《かか》げた。 「この大盃、蘭秋が貰《もら》い受けやした!」 「うおおお———っ!!」  その艶姿《あですがた》。まるで舞台《ぶたい》を見ているようだった。 「万両伏見《まんりょうふしみ》!」 「蘭秋様〜〜〜っ!!」 「蘭秋!」 「日本一!!」 「落ち着きねぇ! 押《お》し合いすんじゃねぇよ、あぶねぇから!」  百雷《ひゃくらい》は、叫《さけ》びながら蘭秋に駆《か》け寄《よ》った。 「太夫《たゆう》!」  雀《すずめ》もポーたちも飛んで行った。 「大丈夫《でえじょうぶ》か、太夫!」 「百雷様……」  百雷に微笑《ほほえ》んだ蘭秋は、そのまましなだれかかった。 「しっかりしねぇ、太夫!」  桜丸《さくらまる》が、とんと降《お》りてきた。 「どっか静かなとこで休ませてやンな、百雷」 「おお、そうだな。後ぁ、頼《たの》んだぜ」 「承知《しょうち》の助《すけ》」  百雷は、蘭秋を抱《かか》えて行った。それを見送る野次馬《やじうま》が口々に蘭秋を讚《たた》える。 「エエもん見せてもらったぜ、太夫! 寿命《じゅみょう》が延《の》びらあ!」 「あんた、もう最高の大江戸《おおえど》っ子《こ》だよ!」 「蘭秋様、しっかり〜〜〜!」 「こっちにも医者|呼《よ》んでくれ———!」  目を回した蛇男《へびおとこ》を介抱《かいほう》しながら、手下が叫《さけ》んだ。巨大《きょだい》な酒樽《さかだる》が累々《るいるい》と転がり、酒の匂《にお》いがたちこめた合戦跡《かっせんあと》。主役は退場《たいじょう》したが、野次馬《やじうま》の熱気は醒《さ》めやらぬまま満ちていた。 「イヤサ、なんともすげぇ勝負だったなぁ。俺《おれ》ぁ、タテガミが立ちっぱなしだったぜ」 「なんつっても、蘭秋《らんしゅう》だぜ! 三座筆頭《さんざひっとう》の一枚|看板《かんばん》を間近で拝《おが》めるってだけでありがた山《やま》の寒紅梅《かんこうばい》だ。それに、あの呑《の》み合戦《くらべ》。俺ぁ、まるで芝居《しばい》を見ている気分だった。目玉が三つともぐるぐる回らあ!」 「違《ちげ》ぇねぇ!」 「すごかったわ! 蘭秋様、すごかったわ〜〜〜!」 「わっちゃあ、震《ふる》えちまったよぅ〜〜!」  女たちも、きゃあきゃあと盛《も》り上がる。  そんな中、雀《すずめ》は百雷《ひゃくらい》と蘭秋の去った方を心配そうに見ていた。 「太夫《たゆう》、大丈夫かな……」 「心配《しんぺぇ》いらねぇよ」  桜丸《さくらまる》は、ひょいと肩《かた》を上げた。 「でも、ぐったりしちゃってさ」 「お前《め》ぇ、蘭秋が役者ってこと、忘《わす》れてねぇか?」 「え?」  桜丸とポーは、苦笑いしていた。  雀はこの瞬間《しゅんかん》、ぞっと背中《せなか》が冷たくなった。 「……太夫って……妖怪《ようかい》なんだよな。あらためて実感した。バケモンじゃなきゃあ、あんな大酒呑《おおざけの》めねぇもんな。あんだけ呑んで平気なんだ……。妖怪だよ、妖怪。忘れてたよ」  妖力《ようりょく》足らずを苦にして一族から離《はな》れたとはいえ、蘭秋はもとは伏見《ふしみ》の上級|妖狐白狐《ようこびゃっこ》一族の眷属《けんぞく》。由緒《ゆいしょ》も血統《けっとう》も正しき大妖怪である。  そこへ、キュー太がするすると寄《よ》ってきた。手に持った紙には、呑み合戦の様子が下書きされていた。ポーが言った。 「サア、雀《すずめ》。君も、自分がかわら版《ばん》屋ってことを思い出さなきゃネ」  雀は、ハッとした。 「そうだった!」  これほどの大事件《だいじけん》、記事にしなければかわら版屋の恥《はじ》! 「誰《だれ》かに先|越《こ》されねぇうちに、版下《はんした》書くぜ、キュー太!」  雀は、夏初《なつは》と祖母《そぼ》の方を見た。 「あの二人《ふたり》のこと、頼《たの》むな、ポー、桜丸《さくらまる》」 「お任《まか》せ」 「夏初ちゃん、おばあちゃん。じゃあな。気をつけて帰るんだぜ」  夏初は手を振《ふ》り、祖母は頭を下げた。 「助けてくれてありがとう、雀さん!」  走り去る雀を見送ってから、桜丸が言った。 「さぁて、熱気で火事が起こらねぇうちに、こっから離《はな》れるぜ」  すっかり熱の上がった野次馬《やじうま》たちの間で、早くも「足を踏《ふ》んだ」だの「てめぇの頭で見えなかった」だのの小競《こぜ》り合いが起きていた。すぐにでも大喧曄《おおげんか》になるだろう。 「この大盃《おおさかずき》、どうするね?」 「ナニ、造作《ぞうさ》もねぇ」  桜丸はニヤリと笑ってから叫《さけ》んだ。 「オイ、誰かこの大盃を日吉座《ひよしざ》まで持ってってくんねぇか!」  たちまち、わっと助《すけ》っ人《と》が集まった。 「呑《の》み込《こ》み山《やま》!」 「蘭秋《らんしゅう》のためなら、喜ぶ巻《ま》きの千住鮒《せんじゅふな》ってなもンだ! 任《まか》せてくんな!」  助っ人たちは嬉《うれ》しそうに、わっせわっせと大盃を運んでいった。 「お前《め》ぇらの宴席《えんせき》はどこだェ?」  桜丸に問われて、夏初は首を振った。 「ただ桜を見に来ただけなので……」 「じゃあ、ボクたちの宴席《えんせき》においでよ。一服《いっぷく》してから帰るといい。美味《おい》しい桜餅《さくらもち》があるよ」  桜丸《さくらまる》とポーは、夏初《なつは》と祖母《そぼ》を連れてその場を離《はな》れた。  残されたのは、目を回した蛇男《へびおとこ》と、オロオロと医者を待つ手下ども。その周りでわぁわぁと、いくつもの喧嘩《けんか》の華《はな》が咲《さ》いていた。 [#改ページ] [#挿絵(img/04_051.png)入る]   薫風吹《くんぷうふ》きて、夏来《きた》る 「さぁさぁさぁ、上下|揃《そろ》って事明細だよ!」  辻《つじ》に立った雀《すずめ》は、大声を上げた。なんだなんだと、大江戸《おおえど》っ子《こ》たちが集まってくる。 「桜《さくら》の森に、艶《あで》やかに水鳥《すいちょう》が舞《ま》ったよ! それは、なんとあの日吉座《ひよしざ》の人気役者。芍薬《しゃくやく》、牡丹《ぼたん》、百合《ゆり》、蘭秋《らんしゅう》と言われる蘭秋|太夫《たゆう》だ! 蘭秋が桜の森を舞台《ぶたい》に、どんな役を演《えん》じたのか、知っとかなきゃあ、大江戸っ子が廃《すた》るってもンだ! さあ、買った買った!」 [#ここから1字下げ] 『春だ。野掛《のが》けだ。花見だ。今年《ことし》もこの季節が来やんした。 桜《さくら》の森で、さぁ酒だ肴《さかな》だ。歌え、踊《おど》れ。楽しいな。 ところが、そんなお座《ざ》が醒《さ》めるような半可通《いきちょん》がいやがった。 こともあろうに、嫌《いや》がる女の子を酒の肴《さかな》にしようってぇ、泥酔者《よたんぼう》だ。大江戸《おおえど》っ子《こ》の風上にもおけねぇ。 そこに、一|羽《わ》の水鳥《すいちょう》が舞《ま》い降《お》りた。その、満桜《まんざくら》もかすむ艶姿《あですがた》。 なんと、あの大江戸|三座筆頭《さんざひっとう》、日吉座《ひよしざ》の一枚|看板《かんばん》の蘭秋太夫《らんしゅうたゆう》が、女の子を助けるため泥酔者の大蛇野郎《うわばみやろう》に呑《の》み合戦《くらべ》を挑《いど》んだ。いよっ、万両伏見《まんりょうふしみ》。 誰《だれ》もが、太夫が大蛇野郎に勝てるなんて思わなかった。そいつぁ当たり前だのコンコンチキ。大蛇野郎ときたら、見上げるような大男。そいつが、山と積んだ十斗樽《じっとだる》を全部|呑《の》み干《ほ》そうかって大酒呑みだ。 だが、どうで有馬《ありま》の筆人形サ。太夫の姿《すがた》がすっぽり隠《かく》れてしまうような大盃《おおさかずき》に、なみなみと注がれた酒を、太夫はあれよあれよと呑み干してゆくじゃねぇか。 太夫こそ、大蛇野郎も真っ青の大水鳥だったのさ。こいつぁ、お釈迦様《しゃかさま》でもご存知《ぞんじ》あるめぇ。 かくして蘭秋大水鳥は、見事大蛇野郎を呑み負かし、天狗様《てんぐさま》の大団扇《おおうちわ》のような大盃を、勝ち取ったり勝ち取ったり〜』 [#ここで字下げ終わり] 「ちくしょう! こんなすげぇ呑み合戦があったなんて! その場で見たかったぜえ!」 「一生の不覚《ふかく》! 大江戸っ子としてお天道さまに顔向けできねー!」  雀《すずめ》のかわら版《ばん》でこのことを知った者たちは、地団駄踏《じだんだふ》んで悔《くや》しがった。 「満桜もかすむ艶姿か! ほンにのウ〜」  薄紅《うすべに》の片肌《かたはだ》に、浅葱《あさぎ》色の裾《すそ》から白い足をのぞかせた蘭秋が、朱塗《しゅぬ》りの大盃を掲《かか》げている姿が、キュー太の筆によって見事に描《えが》かれていた。 「この絵の通りだよぅ! 蘭秋様、素敵《すてき》だった〜!」 「女のナリをしていても、蘭秋はやっぱり漢《おとこ》だったんだ。あたしゃあ、惚《ほ》れ直したよ!」  客たちの反応《はんのう》を見て、雀は満足気に頷《うなず》いた。  そして、雀《すずめ》のかわら版《ばん》を喜んだ客が日吉座《ひよしざ》の天井裏《てんじょううら》にもいた。 「アハハハハ! すごい、すごいぞ、太夫《たゆう》! おまイが侠《きゃん》なのは知っていたが、これほどとは!」  雀のかわら版を片手に大喜びしているのは、日吉座座長|菊五郎《きくごろう》の娘《むすめ》、雪消《ゆきげ》。日吉座の人気|芝居《しばい》のほとんどの脚本《きゃくほん》をてがけている作家である。 「人喰《ひとく》い」という性《さが》を背負《せお》っている雪消は、結界《けっかい》をはりめぐらせた座敷牢《ざしきろう》の中から出られぬ身だが、この小さな世界でおだやかに暮《く》らしている。 「アタシは笊《ざる》なんでござんす」  かわら版を照《て》れ臭《くさ》そうに読みながら、蘭秋《らんしゅう》は言った。 「お酒が美味《おい》しいと思うのは、はじめのお銚子《ちょうし》二、三本ほど。あとはどれだけ呑《の》んでも同じでねぇ。つまらぬ性質《たち》でござんすよ」 「そイでも、いったいその身体のどこに入るんだよ、あの大酒がさぁ」  雀は、蘭秋の身体をまじまじと見た。 「エエも、よしなんし、雀サン。恥《は》ずかしい」 「あの後、八丁堀《はっちょうぼり》の旦那《だんな》とどうなったの? じっくり介抱《かいほう》してもらったかイ?」  雀はニヤニヤ笑いながら顎《あご》をこすった。桜丸《さくらまる》の真似《まね》らしい。蘭秋は艶然《えんぜん》とかわす。 「言わぬが花でござんしょう?」  その艶《つや》っぽい笑みの意味。果たして「うまくいった」のか、はたまた百雷《ひゃくらい》に「かわされた」のかわからなかった。雀には、どっちの意味にもとれた。肝心《かんじん》なところを悟《さと》らせないあたり、やはり超一流《ちょういちりゅう》の役者ならではである。 「う〜ん……イイ!」  雪消が唸《うな》った。 「新作の案が浮《う》かんだよ。次はコレでいこう」 「おお!」  雀は、座敷牢に向かって身を乗り出した。 「�水鳥《すいちょう》 華《はな》の呑《の》み合戦《くらべ》�。鬼《おに》と呑み合戦をする女武者《おんなむしゃ》はどうだエ、太夫《たゆう》」 「雪消《ゆきげ》サン……」  蘭秋《らんしゅう》は呆《あき》れたが、雀《すずめ》は大喜びした。 「イイ! それイイ! 絶対《ぜったい》受ける!! 絶対見てぇー!」 「よぅし、決まりじゃ! アハハハハ」 「呑み合戦の盃《さかずき》には、あの蛇野郎《へびやろう》から取った大盃を使おうぜ!」 「うむ、そうしよう!」  盛《も》り上がる雀と雪消を見て、蘭秋はため息をついた。  桜《さくら》に化けた妖蝶《ようちょう》たちが南へと渡《わた》ってゆき、大江戸《おおえど》に爽《さわ》やかな薫風《くんぷう》の吹《ふ》く頃《ころ》。日吉座《ひよしざ》の夏|公演《こうえん》の幕《まく》が上がった。 『水鳥 華の呑み合戦』は、都を騒《さわ》がす悪鬼月正《あっきげっせい》を退治《たいじ》する女武者|初花《はつはな》の物語だ。  藤十郎《とうじゅうろう》演じる月正は、絶世《ぜっせい》の美男子にして悪鬼。夜な夜な都に現《あらわ》れては、殺し、奪《うば》い、女を攫《さら》った。  藤十郎初の悪役に、喜ぶ客、嫌《いや》がる客から悲鳴が上がる。当の藤十郎は、初めての本格的な悪役を大いに楽しんだ。  多くの武者が月正|討伐《とうばつ》に敗《やぶ》れる中、蘭秋演じる女武者の初花が名乗りを上げる。  初花は、最初は男と見紛《みまが》う武者|姿《すがた》で登場するが、月正の塒《ねぐら》にもぐりこむため、艶《あで》やかな姫君《ひめぎみ》に姿を変える。 「待ってました!」 「芍薬《しゃくやく》、牡丹《ぼたん》、百合《ゆり》、蘭秋!!」  大向こうから声が飛ぶ。 「武者姿もお姫様も、どっちも素敵《すてき》——っ!」  姫君の姿で首尾《しゅび》よく月正に攫われた初花は、月正の真の正体が巨大《きょだい》な鬼《おに》であることを知る。鬼は、月正に取り憑《つ》いていたのだ。  舞台《ぶたい》の天井《てんじょう》に頭がつきそうな大鬼を演《えん》じるのは、最近役者として採用《さいよう》されたぬっぺらぼうの入道《にゅうどう》で、普段《ふだん》は小柄《こがら》な身体《からだ》を十倍ほど膨《ふく》らませることができ、しかもぬっぺらぼうなので、絵師《えし》の描《えが》く顔|次第《しだい》でどんな人物にも変身できた。ただし、まだまだ演技《えんぎ》は修行《しゅぎょう》中である。  この鬼《おに》が、舞台《ぶたい》から噴出《ふきだ》す火花の中でぐぐぐと巨大《きょだい》化してゆくと、観客から大きなどよめきと拍手《はくしゅ》が起きた。  ここで初花《はつはな》は、鬼に呑《の》み合戦《くらべ》を挑《いど》む。自分に敵《かな》うまいと思った鬼は、初花の挑戦《ちょうせん》を受けるのだった。  桜《さくら》の森の水鳥《すいちょう》事件を知っている客たちが、どっと沸《わ》く。呑み合戦の盃《さかずき》には、あの蛇男《へびおとこ》の大盃が登場し、客たちをさらに大喜びさせた。  百花繚乱《ひゃっかりょうらん》の花びらが舞《ま》う中、鬼と初花の呑み合戦が、華麗《かれい》に繰《く》り広げられる。  当然、盃に酒はないのだが、初花が盃をあけるたびに、客からは拍手《はくしゅ》と歓声《かんせい》が上がった。それは、鬼が苦しそうになるにつれて盛《も》り上がり、ついに鬼ががくんと動きを止めたところで最高潮《さいこうちょう》に達《たっ》した。  客たちの大|騒《さわ》ぎの中、 「この時を待っていたぞ!」 と、初花が着物を脱《ぬ》ぎ捨《す》て、凜々《りり》しい武者姿《むしゃすがた》に早変わりする。初花がその剣《けん》で鬼を一|突《つ》きすると、大音響《だいおんきょう》とともに再び舞台から火花が噴出《ふきだ》し、その中で鬼が縮《ちぢ》んで消えていった。 「おおお〜〜〜っ!」  客席から怒濤《どとう》のような歓声が沸《わ》き上がった。  後には、悪鬼《あっき》の抜《ぬ》けた善良《ぜんりょう》な月正が残され、初花と大団円《だいだんえん》を迎《むか》える。 「ヤレ、めでたや!」 「めでたや!!」  舞台は花吹雪《はなふぶき》に包まれ、客席も一緒《いっしょ》になって歌えや踊《おど》れやの終劇《しゅうげき》。 「さすが雪消《ゆきげ》さんだ。面白《おもしれ》ぇ!」  桟敷席《さじきせき》で、雀《すずめ》も立ちっぱなしで拍手《はくしゅ》を送った。 『水鳥《すいちょう》 華《はな》の呑《の》み合戦《くらべ》』は、実際《じっさい》に身近で起きた事件を元にしているだけに、大江戸《おおえど》っ子《こ》に大人気となった。連日の大入り満員に、興行《こうぎょう》は日延《ひの》べ日延べの連続。同時に、雀《すずめ》のかわら版《ばん》も再版《さいはん》に再版を重ね続けた。さらに、ポーがこの芝居《しばい》を草紙《そうし》に起こし、芝居とはまた違《ちが》った味わいよと、こちらも大江戸っ子を喜ばせた。  大江戸のあちこちで呑み合戦が流行《はや》り、酒屋は喜んだが、それで身体《からだ》を壊《こわ》す者、酒がらみの喧嘩《けんか》などが絶《た》えず、ついに奉行所《ぶぎょうしょ》から「呑み合戦|禁止令《きんしれい》」が出た。取り締《し》まりに当たる百雷《ひゃくらい》は苦笑い。 「ヤレヤレ、あやまった。当の事件の立会人としちゃあ、複雑《ふくざつ》な心境《しんきょう》だの」  それでも、日吉座《ひよしざ》の芝居が咎《とが》められることはなかった。  蘭秋《らんしゅう》に呑み負け、面目《めんぼく》を無くした蛇男《へびおとこ》はすっかり改心し、酒|絶《だ》ちしたとかしないとか。  そうこうしているうちに大江戸は初夏も真《ま》っ只中《ただなか》、瑞々《みずみず》しい青空に風の精《せい》が舞《ま》った。太陽の光がキラキラと踊《おど》る水際《みずぎわ》には、ナリを潜《ひそ》めていた河童《かっぱ》や化け亀《がめ》、川小僧《かわこぞう》たちの姿が見られるようになった。 「やあ、カツオだ、カツオだ」 「うさ屋」の昼飯にカツオの刺身《さしみ》が出てきて、ポーは嬉《うれ》しそうに尻尾《しっぽ》をピンと立てた。 「俺《おれ》ぁ、辛子味噌《からしみそ》より醤油《しょうゆ》だ。おやっさん、醤油くれ、醤油!」  醤油をたっぷりつけた刺身を頬張《ほおば》って、雀は「んん〜」っと唸《うな》った。 「うめーイ! カツオの刺身と炊《た》きたての飯、蓮根《れんこん》きんぴらに茄子《なす》の味噌|汁《しる》……たまんねぇ。コウ、胃が喜んでるって気がするぜ」 「季節の移《うつ》り変わりを感じるねぇ。初物《はつもの》を食べて寿命《じゅみょう》も伸《の》びるよ」  二人《ふたり》がうっとりと飯を食っているところへ、暖簾《のれん》をくぐって鬼火柄《おにびがら》の着流し姿《すがた》の男が現《あらわ》れた。 「いらっしゃい、鬼火の旦那《だんな》」  一つ目のお節《せつ》が出迎《でむか》える。 「冷やを頼《たの》むぜ」 「アーイ」 「旦那《だんな》!」  雀《すずめ》は立ち上がって手を振《ふ》った。 「お、お前《め》ぇらも昼飯かイ?」  ざんばらの黒髪《くろかみ》に黒眼鏡《くろめがね》、背《せ》の高い細身の身体《からだ》には、青黒い入れ墨《ずみ》が刻《きざ》まれている。  鬼火《おにび》と呼《よ》ばれる正体不明のこの男は、雀がこの世界へ落ちてきた時からずっと、雀を見守り続けてくれている親代わりの一人《ひとり》であり、雀が最も信頼《しんらい》する人物であった。 「旦那、ごきげんさんで」 「エエ日和《ひより》でござんすねェ」  他《ほか》の客たちも声をかけてくる。鬼火の旦那は雀だけでなく、皆《みな》に慕《した》われていた。  旦那は、雀が空けた席へ座《すわ》った。 「オ、なんだイお前ぇら、いやに豪勢《ごうせい》じゃねぇか」 「初鰹《はつがつお》だよ。旦那もどうだイ?」  ポーが、髭《ひげ》をぴんと弾《はじ》いた。 「呑《の》み合戦《くらべ》のかわら版《ばん》と草紙《そうし》が売れて、懐《ふところ》が温《あった》けぇと見える」  旦那は笑った。雀とポーも笑った。 「さすがの吝虫《しわむし》の親方も、特別手当を出してくれたぜい!」 「そいつぁ、重畳《ちょうじょう》!」  お節が、酒と茄子《なす》の揚《あ》げびたしを持って来た。 「初鰹も貰《もら》おうか」 「アイ」 「茄子の紫が綺麗《きれい》だねェ」 「夏だの」  旦那が茄子に箸《はし》を入れると、やわらかく煮《に》られた茄子はさっくりと割《わ》れた。鰹|出汁《だし》の香《こう》ばしい匂《にお》いが立つ。 「旦那《だんな》、蘭秋《らんしゅう》の芝居《しばい》見たかい?」  飯をもりもり掻《か》き込《こ》みながら、雀《すずめ》が言った。 「アア、見た」  冷やをやりながら、旦那は笑った。 「しかし、アレが実際《じっさい》の話たぁ、恐《おそ》れ入谷《いりや》だぜ」 「ほんっと、すごかったんだぜえ、太夫《たゆう》はよ! あの姿《すがた》は、俺《おれ》一生|忘《わす》れらンねぇよ!」 「なンとも粋《いき》な水鳥《すいちょう》もいたもンだ。水鳥ってな、呼《よ》び名こそ粋だが、たいがいがただの大酒|呑《の》みってだけだからな」 「ただでさえ大江戸《おおえど》には大酒呑みが多いのに、それを上回る桁違《けたちが》いの酒豪《しゅごう》がいたなんて、ものすごい話だよねぇ。あの大樽《おおだる》の山! 見てるだけで二日酔《ふつかよ》いしそうだったヨ」 「ははは」 「カツオの刺身《さしみ》と小芋《こいも》の煮たの、お待ちどぉー」 「お節《せ》っちゃん、飯と味噌汁《みそしる》おかわり!」 「アイアーイ」 「オウ、鬼火《おにび》の旦那、いらっしェい」  雀たちが話していると、うさ屋が大きな腹《はら》をゆさゆさ揺《ゆ》らしてやって来た。 「雀、こいつを喰《く》ってみねぇ」  うさ屋は、小皿に載せた黄色いものを雀の前に置いた。 「んん? 何、これ?」  小さな匙《さじ》が付いていたのでそれですくうと、ぷるんとした感触《かんしょく》が伝わってきた。口に運ぶと、懐《なつ》かしい優《やさ》しい味がした。雀は息を呑んだ。 「……プリン! プリンだ!!」 「やっぱりな! お前《め》ぇなら、この味がわかると思ったぜぇ。そうかィ、ぷりんというのか、ひひひひ」  うさ屋は愉快《ゆかい》そうに笑った。  深川《ふかがわ》のキャフェーに行けば、「ケェキ」や「ソォダ」がある大江戸《おおえど》だが、プリンを食べられるとは思っていなかった雀《すずめ》は、軽い衝撃《しょうげき》を受けた。 「あっさり味だけど……間違《まちが》いなくプリンだよ。え、なんで? これ、おやっさんが作ったのかい?」 「ふっふーん。そぉよ。前々から研究しとってなぁ」 「出たよ、おやっさんの�料理研究�」 「失敗作も多かったなぁ」  ポーと旦那《だんな》が苦笑いする。 「だまらっしゃい! 料理道とは、血と汗《あせ》と、食材とひらめきの戦いなのよ! 失敗を恐《おそ》れちゃあ、新作は生まれねえ」  うさ屋は、腹《はら》をぼいんと叩《たた》き、それからニヤリと笑った。 「……というわけでな。ついにうちも氷箱《ひばこ》を買ったのよ」 「ひばこ?」 「冷蔵庫《れいぞうこ》さ」  旦那《だんな》の答えに、雀は驚《おどろ》いた。  大江戸の庶民《しょみん》の暮《く》らしには、冷たい食べ物ももちろんある。それは、雪坊主《ゆきぼうず》などの「氷魔《ひょうま》」たちが売りに来る氷などを買って作るものだった。他《ほか》の何かを冷やす時も、氷を使った。物を冷やして(長く)保存《ほぞん》するという行為《こうい》は、庶民《しょみん》にはなかった。それは位の高い家や、大勢《おおぜい》の者を抱《かか》えている上級の娼家《しょうか》、一流の料亭《りょうてい》など限《かぎ》られた場所での特権《とっけん》だった。 「え? 冷蔵庫? 電気……じゃなくてエレキテルの!?」 「いやいや」  うさ屋が抱《かか》えるようにして持って来たのは、木製《もくせい》の仏壇《ぶつだん》のような箱だった。うさ屋はそれを台の上に置いた。観音《かんのん》開きの扉《とびら》を開けると、白い冷気が溢《あふ》れ出た。箱の内側は鉄板が張《は》られており、中は二|段《だん》になっていて、下段にプリンが並《なら》んでいた。 「前々から、茶碗蒸《ちゃわんむ》しってなぁ菓子《かし》みてぇだと思っとったのヨ。女子どもが好きだろう? もっと甘《あま》けりゃ立派《りっぱ》な菓子になるんじゃねぇかとな。したが、ただ甘くしたんじゃ、そりゃ甘《あま》い茶碗蒸《ちゃわんむ》しだ。で、冷やしてみようかと思ったのサァ。出汁《だし》の代わりに最初は水でやったんだが、コイツぁ美味《うま》くねぇ。で、乳《ちち》を使ったのヨ。ケェキやクリィムにゃあ、乳を使うって聞いたんでな。いやぁ、成功したときゃあ、嬉《うれ》しかったぜエ」  雀《すずめ》は身を乗り出した。 「いやっ、おやっさんの料理好きはわかったけど、この氷箱《ひばこ》って、どうやって冷やしてんの?」 「コイツさ」  うさ屋が氷箱の中から取り出したものは、藁《わら》に吊《つ》るされた、手に握《にぎ》り込《こ》めるほどの小さな氷の塊《かたまり》だった。しかしこの小さな塊は、絶え間なく冷気を発していた。 「まるで、ドライアイスだ……!」  まじまじと見つめる雀の目の前で、塊が、 「水をくれ」 と、言った。 「わあっ、しゃべった!」  雀は飛び上がった。 「ワハハハハ!!」  皆《みな》が大笑いした。 「ユキノドウというのヨ」  旦那《だんな》が笑いながら言った。 「そいつを氷箱に入れとくと、箱の中が常《つね》に冷えるってワケだ」 「妖怪《ようかい》……か」  驚く雀に、ユキノドウはまた、 「水をくれ」 と言った。 「コイツ、水|欲《ほ》しがってるけど?」 「水をやっちゃあ、冷えすぎちまうのさ。まぁ、水をやらねぇとだんだん小さくなっていっちまうがな」  うさ屋は、ユキノドウを氷箱《ひばこ》に戻《もど》した。 「その頃《ころ》を見計らって、雪降《ゆきふ》り坊主《ぼうず》が交換《こうかん》しにくるのヨ」 「なるほど。妖火《ようび》の売り方と同じってわけか。あ、でも……小さくなった頃合《ころあい》に水をやるってこたぁできねぇのか?」 と、雀《すずめ》が旦那《だんな》に問うと、旦那はちょっと肩《かた》をすくめた。 「さぁて。その塩梅《あんばい》が、雪降り坊主でねぇとわからねぇとこサ」 「ちょっとでも間違《まちが》ぇると、屋敷《やしき》ごと凍《こお》っちゃうこともあるくらいだってねぇ」 と、ポーも言った。 「その手間賃《てまちん》が結構《けっこう》高くつく。夏は特にな」  うさ屋はシブイ顔をした。だから氷箱は、庶民《しょみん》には高嶺《たかね》の花なのである。  素人[#「素人」に傍点]にはできなくとも、おそらく鬼火《おにび》の旦那のような魔人《まじん》なら、その微妙《びみょう》な塩梅も可能なのだろうが、旦那はうさ屋に手は貸《か》さない。うさ屋も旦那に「ちょっとやってくれや」とは言わない。それが、上魔《じょうま》と下魔《げま》の暗黙《あんもく》の了解《りょうかい》のようなものだった。 (そうなんだよな……。鬼火の旦那や桜丸《さくらまる》や百雷《ひゃくらい》なら、なんだってできるはずなんだ。でも、魔人《まじん》というか、妖力《ようりょく》の高い奴《やつ》は、ここぞという時でしか下の奴《やつ》を助けない。でも……)  雀は、それこそが、この大江戸《おおえど》を「普通《ふつう》の者たちが普通に暮《く》らせる」場所たらしめているのだと感じる。人間の雀からすれば妖怪《ようかい》だらけでも、特殊能力者《とくしゅのうりょくしゃ》だらけでも、雀と何も変わらなく日々を過《す》ごし、泣き、笑い、酒を呑《の》んで美味《うま》いものを喰《く》って、恋《こい》をして子どもをつくって……そして死んでゆく。そんな愛すべき生き方。だから雀も、ここで生けてゆけるのだと思う。 「だが、これで今年《ことし》の夏ぁ、いつでも冷てぇ菓子《かし》を出せるぜ。作り置きもできる。まぁ、ぷりんは乳《ちち》が高くつくから、あンま作れねぇけどヨ。冷やし葛餅《くずもち》とか、冷やし羊羹《ようかん》とか。寒天《かんてん》もエエなぁ」  顔だけは可愛《かわい》いうさぎ顔が、満足気に笑った。その恩恵《おんけい》を一番受けるであろう雀も、大満足で笑った。 「アイスデザートってわけだ。楽しみだなあ! そうだ、おやっさん。なんか足りねぇと思ってたら、このプリン、カラメルが載《の》ってねぇんだよな」 「からめる? そりゃ何だェ?」 「えっとな……焦《こ》げ茶色の……。カラメルってどうやって作るんだっけ?」  雀《すずめ》はポーの方を見たが、ポーは肩《かた》をすくめて首を振《ふ》った。 「ライス・プディングなら知ってるんだけどねぇ」 「旦那《だんな》、知らねぇか?」 「俺《おれ》が知るわけねぇだろう」 「旦那って、向こう[#「向こう」に傍点]の世界のことでも知ってんじゃん」 「カラメルの作り方まで知らねぇよ」  旦那は、刺身《さしみ》を頬張《ほおば》った口をとがらせた。  それから数日後。めし処《どころ》「うさ屋」に、「冷菓子《あいすでざあと》」(命名、雀)ののぼりが立った。昼|限定《げんてい》、数も限定だが、昼定食によく冷された「あん入り葛餅《くずもち》」や、蜜柑《みかん》の実と果汁《かじゅう》の入った「蜜柑寒天《みかんかんてん》」などの菓子《かし》が付けられ、特に女たちを喜ばせた。雀も、もちろん喜んだ。 「夏には夏の楽しみが増《ふ》えたぜ!」  雀の夏は、始まったばかりだった。  そんな薄暑《はくしょ》のある日のこと。  雀は、桜丸《さくらまる》と隅田川沿《すみだがわぞ》いを歩いていた。 「お、見ねえ!」  桜丸が空を指差した。  雀が見上げると、大空を巨大《きょだい》な龍《りゅう》が横切っていた。 「うお〜……!」  それは青く透明《とうめい》で空に溶《と》け入ってしまいそうだが、かつて見たこともないぐらい大きかった。そのまわりを、薄《うす》青い翼《つばさ》をつけた者たちが飛んでいる。水神《すいじん》の火消し連中だった。 「ありゃあ、水神の龍《りゅう》だな」 「あんなにでっかいんだ! すげえなぁ〜!」  通りゆきの大江戸《おおえど》っ子《こ》も、みんな空を見上げていた。指を差す者、柏手《かしわで》を打つ者、女たちはきゃあきゃあと手を振《ふ》っていた。水神の火消しは、大江戸の火消しの花形なのだ。  長々と悠々《ゆうゆう》と空をゆく水神の龍の尻尾《しっぽ》がようやく見えたかと思ったその時、何かがぴちっとその尻尾に当たったように見えた。 「ん?」  それは、ひゅるひゅると空から落ちてくると、雀《すずめ》と桜丸《さくらまる》の目の前で、隅田川《すみだがわ》にドボーンと落ちた。 「なんか落ちてきたぞ」  猪牙船《ちょきぶね》の真横に落ち、目を回してぷかりと浮《う》かんできたのは、人型の若い男だった。猪牙船の船頭が憮然《ぶぜん》と言った。 「コレサ、兄《あに》サン。気をつけてくれなきゃあ困《こま》るゼ。船をブチ抜《ぬ》かれたんじゃあ、こちとら閉口三宝《あやまりさんぽう》ヨ」  船頭は、長い竿《さお》で男を突《つ》ついて川岸へ追いやった。それを桜丸が引き上げる。 「オイ、大丈夫《だいじょうぶ》か? しっかりしねぇ」  頬《ほお》を叩《たた》くと、男はハッと起き上がった。 「ああっ、ビックリした!」 「わぁ〜、起きてンだか寝てンだかハッキリしねぇ細目だなぁ」  雀が笑った。その雀の顔を両手でガッシと掴《つか》んで男は言った。 「おお、雀《すずめ》! 大首《おおくび》のかわら版《ばん》屋の雀じゃろ!」 「あ? ああ、そうだけど」 「お前《め》ぇを見かけたんで声をかけようと余所見《よそみ》したら、水龍《すいりゅう》の尻尾に弾《はじ》かれてしもうた! アハハハハ! 地面に落ちてたら死ぬとこだった! アハハハ!」  びしょぬれの男は、明るく笑った。茶色がかった髪《かみ》に白い肌《はだ》。細い目。桜丸《さくらまる》より少し上ぐらいの年|恰好《かっこう》に見える。 「え〜と……。あんた、誰《だれ》?」  雀《すずめ》は首を傾《かし》げた。男は細い目で言った。 「儂《わし》ぁ、伊吹《いぶき》。お前《め》ぇ、飛鳥山《あすかやま》で夏初《なつは》って女の子を助けてくれたろう?」 「夏初……」 「蘭秋《らんしゅう》の水鳥《すいちょう》事件の時じゃ!」  伊吹《いぶき》は、懐《ふところ》から雀《すずめ》のかわら版《ばん》を取り出した。 「あ〜あ、濡《ぬ》れてしもうたァ」  雀はポンと手を打った。 「ああ、おばあちゃんと大江戸《おおえど》の桜《さくら》見物に来てたって子か!」 「そーそー!」  伊吹は大きく頷《うなず》いた。 「ありゃあ、うちの村の子でのぉ。村長の姪《めい》っ子じゃから、何かあったら大騒《おおさわ》ぎになってたところじゃ〜」 「そうなんだ!」  雀がよく見ると、伊吹の指の間に夏初と同じような、薄《う》っすらとした水掻《みずか》きがついていた。 (あれ? 伊吹って、今空から落ちてきたよな? 水魔《すいま》じゃなかったってこと……?) 「ふぇっくし!」  くしゃみをした伊吹を立たせながら、桜丸《さくらまる》が言った。 「いくら初夏でも、濡《ぬ》れネズミじゃあ風邪《かぜ》引くゼ。話の続きは大首《おおくび》ンとこでしようや」  三人は大首のかわら版屋へ向かった。 「遅《おそ》くなってまことにすまんけど、あの時のお礼がしたくてのぉ」 「そんなのいいのに」 「なんせうちの村は田舎《いなか》なもンで、話が伝わるのも遅《おそ》いし、何事も村のモンの意見が一致《いっち》せんと決められんし、お礼をどうするかで悩《なや》んでおったんじゃ〜。そンで、お前《め》ぇがかわら版《ばん》屋で、おまけに人間と聞いての。村へ招待《しょうたい》すれば喜ぶんじゃなかろうかと」  細い目が意味深に笑った。 「あんたの村って……?」 「竜宮《りゅうぐう》じゃ」 「り……竜宮ぅう!?」  雀《すずめ》は飛び上がった。 「竜宮って、あの竜宮? で、でもあんた……今、空から……っ」  伊吹《いぶき》の目が、いっそう意味深に細まった。 「竜宮は竜宮でも、天空の竜宮|城《じょう》じゃ!」 [#改ページ] [#挿絵(img/04_079.png)入る]   天より落ち来る者あり  大首のかわら版屋の奥座敷《おくざしき》に、雀は、天空の竜宮城からやって来た伊吹という男を迎《むか》えた。  大首の親方の手下ども——どこからどう見ても、醤油《しょうゆ》で煮《に》た煮卵《にたまご》に手足が生えたモノ——がわらわらと伊吹にたかり、濡《ぬ》れた着物を脱《ぬ》がせ、身体《からだ》を拭《ふ》き、新しい着物を着せ、洗濯《せんたく》するために濡れた着物を持って行った。 「ほぅ、天空の竜宮から来たのか。ご苦労なこった」  壁《かべ》一面の真《ま》っ赤《か》な顔だけの大首の親方は、そう言っただけだった。 「そう言やあ、夏初《なつは》ちゃんが竜宮《りゅうぐう》から来ましたって言ってたっけ」 と、ポーは髭《ひげ》をピンと弾《はじ》いた。 「ええ〜〜〜? なんでソレ、俺《おれ》に言ってくんなかったの、ポー?」 「だって、竜宮って……まぁ、確《たし》かに珍《めずら》しい場所かも知れないけど……ものすごく珍しいかって言えばそうでもないし……」  ポーは首を傾《かし》げ傾げ言った。 「そういう場所は他《ほか》にもあるしなあ」 と、桜丸《さくらまる》も言った。 「そうなの?」  伊吹《いぶき》に問えば、伊吹は盛大《せいだい》に頭を掻《か》いた。 「アハハハ! そう言われれば、その通りじゃのぉ! アハハハハ!」 「綺麗《きれい》なとこだってことは聞いたよ。天空魚《てんくうぎょ》がたくさんいて、町|並《な》みもカラフルだとか。でも、観光地じゃないしね。天空魚の特産地ではあるけど」  伊吹は頷《うなず》いた。 「ほんとに、単なる一|田舎《いなか》じゃ」 「天空魚の特産地……」 「うちは村中で天空魚を飼育《しいく》しとるんじゃ。それで大江戸《おおえど》と交流があるんじゃよ。儂《わし》ぁ、こう見えても村役場の役人でのぉ。ちょくちょく大江戸に来《き》とるぞ」 「天空魚って、よく空の高いところを飛んでる魚みたいなやつ?」 「あれの綺麗なやつネ」 「そーそー。うちの村の天空魚は、一等綺麗じゃ! どこの天空魚よりも高値《たかね》で取引されるんじゃ」  伊吹は胸《むね》を張《は》った。 「俺、天空魚って近くで見たことないんだけど」 「あー、お金持ちのお屋敷《やしき》にしかいないからねぇ」  ポーは、大きくパイプの煙《けむり》を吹《ふ》かした。  金持ちの家には、雀《すずめ》もまだ見たこともない珍《めずら》しい生き物が飼《か》われているという。  天空魚《てんくうぎょ》は、鯉《こい》と違《ちが》い池や水槽《すいそう》を用意しなくても飼育《しいく》できる点が重宝《ちょうほう》されている。小型で美しい鰭《ひれ》をもつ観賞用の天空魚を、ギヤマンの器《うつわ》や繊細《せんさい》な竹細工の箱に入れて鑑賞するのが、金持ちたちの間で流行《はや》っていた。  竜宮《りゅうぐう》産の天空魚は、高いものとなると身代《しんだい》が傾《かたむ》くような値《ね》がつく高級品のため、そこらへんの露天《ろてん》や出店などでは扱《あつか》われず、それぞれの顧客《こきゃく》のもとへ直接《ちょくせつ》売り手が出向くとか、顧客を集めて不定期に競《せ》りが開かれたりする。 「こういう、特産品のある特定の場所っていうのは、大江戸《おおえど》の周りにいくつもあるんだよ」 というポーに、桜丸《さくらまる》が、 「周りっつっても、ほんとに周りにあるわけじゃねぇけどな」 と、付け加えた。どうやら「歩いていける距離《きょり》」の話ではないようだ。それは、雀にもわかった。庭の木戸を開けたら、その向こうは全く別の場所という経験《けいけん》を雀もしている。大江戸の人々にとって、空間を越《こ》えることはなんでもないことなのだ。 「大江戸の鶏肉《とりにく》と卵《たまご》をすべて賄《まかな》っている地域《ちいき》とか、大根ばかり育てている場所とか、ギヤマンを作っている村とか。その風土、その地域の者の気質《きしつ》なんかに合った暮《く》らしをしている場所。そういうところの一つなんだよ、天空の竜宮も。ネ、伊吹《いぶき》サン」 「まことにその通り」  伊吹はポーに向かって頭を下げた。 「天空っていうからには……空にあんの?」 「竜宮は、川と海と空にあるのヨ」  桜丸が解説《かいせつ》してくれた。 「川の竜宮と海の竜宮は繋《つな》がりがある。主《あるじ》の銀水姫《ぎんすいひめ》と金水姫《きんすいひめ》は双子《ふたご》だしな。水神《すいじん》の領域《りょういき》だ。天空の竜宮は、似《に》てるようで全然|違《ちが》うのヨ。風神《ふうじん》の領域だしな。でもな、川の竜宮も海の竜宮も空の竜宮も、大江戸からすりゃあ、一|田舎《いなか》つうか……一地方に過《す》ぎねぇ」  桜丸とポーの話を聞いて、雀は腕組《うでぐ》みして考えた。 「そうか……浦島太郎《うらしまたろう》の竜宮城《りゅうぐうじょう》も……あそこも、竜宮村っていう一|地域《ちいき》と考えれば……。乙姫《おとひめ》様たちはそこに住む村人で、特産品は魚で、村人は歌や踊《おど》りが上手《うま》いっていう特徴《とくちょう》があって、ちょっと他《ほか》より時間のたち方が違《ちが》ってる地域……」 「アハハハ。わかってくれたかいの?」 「なんとか……。絵本で見た竜宮城がただの一地方って思うと、夢《ゆめ》もロマンもないけど」 「ろまん?」 「伊吹《いぶき》さんは、天空竜宮村の村人ってわけだね。手に水掻《みずか》きがあるのはなぜだい?」 「ああ」  伊吹は、自分の手を雀《すずめ》に見せて言った。 「儂《わし》ぁ、人魚だからの」 「に、人魚〜〜〜っ!?」  雀はまた飛び上がった。 「人魚は人魚でも、天空人魚《てんくうにんぎょ》だヨ」  桜丸《さくらまる》が付け加えた。  雀は、伊吹をまじまじと見た。バサバサの茶色の髪《かみ》。開いているのか閉《と》じているのかわかりづらい細い目。ひょろっとした足には脛毛《すねげ》。そこらへんを歩いているただの兄《にい》ちゃんと全く変わりない。 「これが人魚……」  雀が思い描《えが》く人魚……美しい緑の髪をなびかせ、虹色《にじいろ》の鰭《ひれ》と鱗《うろこ》に覆《おお》われた下半身を持ち、波間を優雅《ゆうが》にたゆたう美女……から程遠《ほどとお》いにも程がある。 「夢とロマンが……」  実際《じっさい》、海で時折見かける人魚は、美しい女が多かった。男の人魚もいるのだろうが、雀はまだ見たことがなかった。  ここで雀は、ハタと気づいた。 「天空人魚は、水の中を泳ぐんじゃなくて空を泳ぐんだ」 「そーそー」 「だから夏初《なつは》ちゃんもおばあちゃんも、半股引《はんももひき》を履《は》いてたんだな」 「そーそー! 股引を履いてねぇと、大事なとこが下から丸見えじゃからなぁ! アハハハハ!」  伊吹《いぶき》はピシャピシャとでこを叩《たた》いた。桜丸《さくらまる》は大笑い、雀《すずめ》とポーは苦笑い。 「まぁ、そんな竜宮《りゅうぐう》じゃが、お前《め》ぇから見たらば、きっと珍《めずら》しい思いをすると思うてな、雀。うちの村へ遊びに来《こ》んか?」  伊吹は、細い目で笑った。 「行きたい!」  雀は即答《そくとう》した。 「俺《おれ》、大江戸《おおえど》にはまだ二年間しか住んでねぇんだ。まだまだ何も知らねぇんだよ、大江戸のこと。ましてや大江戸以外の場所のことなんざ考えたこともなかったぜ。大浪速《おおなにわ》とかがあるってことは聞いてるけどさ」 「二、三日|泊《と》まればええ。村長も夏初を助けてくれたお礼をしたいと言うとるヨ」  雀は、胸《むね》がわくわくした。桜丸やポーにとっては、単なる田舎《いなか》に過《す》ぎないのだろうが、天空人魚《てんくうにんぎょ》の住む、空にある竜宮という場所がどんなところなのか、雀には想像《そうぞう》もできなかった。だから、無性《むしょう》に行きたくなった。 「親方!」  雀は大首の親方の前で正座《せいざ》した。 「竜宮へ行ってもいいだろ? 俺、また見聞録書くよ!」 「う〜む」  親方は口をへの字に曲げたが、 「まぁ、いいだろう。行ってきな」 と、許可《きょか》を出してくれた。 「バンザ……」 「きっちり見聞録上げねぇと、給金差っ引くからな! 覚えときゃがれ!」  万歳《ばんざい》しかけた雀は、三つ指をついた。 「ヘイ! 肝《きも》に銘《めい》じて!!」 「本当は、蘭秋太夫《らんしゅうたゆう》も誘《さそ》いたいんじゃがのぉ」  伊吹《いぶき》は顎《あご》を擦《す》りながら言ったが、ポーは首を振《ふ》った。 「ソリャ無理だネ。興行《こうぎょう》の真っ最中サ」 「いつかは芝居《しばい》見物もしてみたいもんだの」 「太夫には、俺《おれ》がおみやげを買ってくるさ! 伊吹さん、竜宮《りゅうぐう》ってこっからどんぐらい遠いンだい? 旅仕度《たびじたく》って、どうすりゃいい? 脚絆《きゃはん》とかつづらとか合羽《かっぱ》とかいる?」  初めての旅に興奮《こうふん》する雀《すずめ》に、桜丸《さくらまる》もポーも笑った。 「合羽って、お前《め》ぇ。渡世人《とせいにん》じゃあるめぇし」 「つづらなんてのもいらないヨ。荷物は風呂敷《ふろしき》に包んで袈裟懸《けさが》けするといい」  伊吹は雀に言った。 「お前ぇが用意するのは、結《ゆ》わいつけ草履《ぞうり》じゃな」 「結わいつけ草履……。確《たし》か夏初《なつは》ちゃんもおばあちゃんも履《は》いてたやつだ」 「飛んどる時に、落ちねぇようにじゃよ」 「俺も……飛ぶの!?」 「そういやあ、天空人魚《てんくうにんぎょ》と一緒《いっしょ》だと空を飛べるらしいねぇ」  パイプを吹《ふ》かしながらポーはのんびりと言ったが、風の桜丸の背中《せなか》におぶさって何度も空を飛んでも、いまだに空を飛ぶ不思議には雀は興奮《こうふん》せずにいられない。 「ホントに飛ぶのかイ?」 「地面をフツーに歩いていっちゃあ、何日もかかっちまうぞ」  細い目が苦笑いした。 「天空人魚は、俺みてぇに跳《は》ねるんじゃなくて、空火消しみてぇに飛ぶぜ、雀。風邪《かぜ》引かねぇように気ぃつけな」 「ふぉおおお……!」  雀の胸《むね》は、ますますときめいた。  長屋へ帰った雀《すずめ》は、下帯《したおび》の換《か》えや歯磨《はみが》き、手帳や筆の換《か》えなどを風呂敷《ふろしき》にくるんだ。着物をもう一枚重ね着し、首には布《ぬの》を巻《ま》いた(古着《ふるぎ》屋で買った布だが、女の腰巻《こしまき》だった)。そして、結《ゆ》わいつけ草鞋《ぞうり》を履《は》いた。 「おや、雀ちゃん? どっか出かけるのかい?」  長屋のおかみ連中が声をかけてきた。 「空を飛んで、天空の竜宮城《りゅうぐうじょう》へ行くんだ!」 「おやまぁ! そりゃあ、大変だ」  蛇面《へびづら》や蝦蟇面《がまづら》のおかみたちは、明るく笑った。 「天空の竜宮って、天空魚《てんくうぎょ》で有名なとこだよねぇ」 「どこらへんにあるのかねぇ?」 「あ〜、あたしもどっかへ旅したいもンだ」 「また見聞録書くよ!」 「楽しみだねぇ!」 「俺《おれ》、二、三日|居《い》ねぇから、猫《ねこ》の世話たのんます」 「あいヨ。任《まか》せときな」 「そうだ、雀ちゃん。これ持って行きな」 「これも。途中《とちゅう》でお食べ」  おかみたちが、ぼた餅《もち》や握《にぎ》り飯やたくあんを持たせてくれた。 「そイじゃ、行ってきまーす!」  すっかり大きくふくらんだ風呂敷包みを袈裟懸《けさが》けに結わえて、雀《すずめ》はおかみたちに元気よく手を振《ふ》った。  その間に、伊吹《いぶき》は日吉座《ひよしざ》で、夏初《なつは》を助けてもらった礼を言うため蘭秋《らんしゅう》に会っていた。  大首《おおくび》のかわら版《ばん》屋に戻《もど》ってきた伊吹の細い目尻《めじり》は、すっかり下がっていた。 「大江戸《おおえど》一、いやさ日本一の歌舞伎《かぶき》役者と向き合って、震《ふる》えがきたのぉ〜。当分いい夢《ゆめ》が見られそうじゃ」 「どんな夢を見る気だよ!」 「念を押《お》しとくが、太夫《たゆう》は男だぞ〜」 「あンだけまぶしけりゃあ、何でもええじゃろうが!」  雀《すずめ》もポーも桜丸《さくらまる》も大笑いした。 「さて、太夫に挨拶《あいさつ》もすんだし。そろそろ行こうかの、雀」 「おうっ!」  かわら版《ばん》屋の前で、ポーと桜丸とキュー太が見送ってくれた。 「気ぃつけてな〜」 「雀のこと、よろしく頼《たの》むよ、伊吹《いぶき》サン」 「アイアイ、お任《まか》せ〜」  伊吹が、右手を雀の腰《こし》に回し少し抱《かか》えるようにすると、雀は伊吹とともにフワリと宙《ちゅう》に浮《う》いた。 「うおっ!」  それからゆっくりと、まるで鳥が飛び立つように二人は空へと舞《ま》い上がった。 「ふぉおおおぉぉ〜!」  手を振《ふ》る桜丸たちが、みるみる小さくなってゆく。桜丸の背《せ》におぶさって空を跳《と》ぶ時とは全く違《ちが》う浮遊感《ふゆうかん》に、雀の胸《むね》は震《ふる》えた。 「おお〜〜〜、なんか……なんか気持ちがいいというか悪いというか……」 「アハハハ! すぐ慣《な》れる慣れる」  風が、やさしく雀の頬《ほお》をなぶってゆく。まさに風のように、鳥のように、まっすぐ空をゆく。  雀のすぐ近くを、雲雀《ひばり》が同じようにまっすぐ飛んで行った。少し斜《なな》め上、どこかにゆく輿《こし》とすれ違った。どこまでも「飛んでゆく」ということを実感して、雀の全身にあらためて鳥肌《とりはだ》が立った。 「すっげぇ〜〜〜!」 「どうじゃ、空を飛ぶ気分は?」  伊吹が細い目で笑った。 「儂《わし》ぁ、こんくらいの速さでしか飛べねぇけどな」  確《たし》かに桜丸《さくらまる》に比《くら》べると、風を切《き》り裂《さ》くような爽快感《そうかいかん》はない。だが雀《すずめ》は、翼《つばさ》を広げて波間をどこまでも風に揺《ゆ》られてゆくカモメになったような気がした。 「充分《じゅうぶん》気持ちいいよ、伊吹《いぶき》さん。景色《けしき》がよく見える!」  大江戸八百八町《おおえどはっぴゃくやちょう》の甍《いらか》の波。新緑に輝《かがや》く木々、太陽の光に煌《きらめ》く川面《かわも》。ちまちまと行きかう大江戸っ子たち。まるで模型《もけい》のようだった。雀に気がついて手を振《ふ》る者もいた。富士山《ふじさん》がくっきりと見えた。大江戸|城《じょう》がそびえ立っていた。  ふと気がついて、雀が訊《たず》ねた。 「俺《おれ》のこと、重くないのかい、伊吹さん?」 「竜宮《りゅうぐう》の者は、重さってやつをあんまり感じねぇンじゃ。多少の差はあるが、儂なら雀をもう二人ばかり抱《かか》えても飛べるぞ」 「へ〜、すげぇなぁ」 「竜宮から大江戸に出稼《でかせ》ぎに来《き》とる奴《やつ》もおる。力仕事をしとる奴らが多いよ。重い荷物も平気だからの」 「空飛脚《そらひきゃく》とかもできそうじゃん?」 「アハハ。天空人魚《てんくうにんぎょ》は飛ぶのが遅《おそ》いからいかん。竜宮の者だからといって皆《みな》が飛べるわけでもないしのぉ」 「あ、そうなんだ」 「重さをあまり感じねぇってのが、竜宮の者に共通した特性《とくせい》かの。竜宮ってとこが、もともと重さの関係ねぇとこじゃからなぁ」 「それって、どういうことだい?」 「来てみりゃわかる」  大江戸城を左手に、伊吹は北の方へ向かって飛んだ。  大江戸を出たあたり。高い高い大杉《おおすぎ》のてっぺんで、雀は伊吹と、長屋のおかみたちが持たせてくれた握《にぎ》り飯とぼた餅《もち》を食べた。伊吹と並《なら》んでいると、木のてっぺんの細い枝《えだ》にも座《すわ》ることができた。  眼下《がんか》に広がる田んぼが青々と美しく、蝶《ちょう》や蜻蛉《とんぼ》がたくさん飛んでいた。水の匂《にお》いや土の匂いが、高い空の上にも香《かお》ってきた。雀《すずめ》は、すっかり鷹《たか》か鷲《わし》の気分だった。 「握《にぎ》り飯うめぇ〜〜〜!」  大杉《おおすぎ》のてっぺんでそう叫《さけ》ぶと、胸《むね》がスカーッとした。 「このぼた餅《もち》も大そう美味《うめ》ェ。お前《め》ぇは幸せモンだのぉ、雀」  伊吹《いぶき》は、細い目をさらに細めて言った。その言葉は、雀の胸《むね》に響《ひび》いた。  たかが握り飯とぼた餅……しかし、この美味《うま》さが幸せとなって、雀の身体《からだ》中に染《し》み渡《わた》る。 「……うん」  この世界に、雀は一人《ひとり》きり———。  でも、淋《さび》しくない。  こんな美味い握り飯やぼた餅を作ってくれる者たちに、雀は囲まれている。 「よしっ、美味いもんも食ったし。もう一っ飛びじゃ」 「レッツゴー!」  雀は腕《うで》を突《つ》き上げて叫《さけ》んだ。  新緑でキラキラする山間を抜《ぬ》け、谷に沿《そ》って伊吹《いぶき》は飛んだ。途中《とちゅう》、山と山をまたぐ大きな足を見た。 「天狗《てんぐ》様じゃ!」  雀は、その巨大《きょだい》な足のすぐ脇《わき》を通り過《す》ぎた。 「うっひょ〜〜〜! でけ———!!」  足に生えた毛が、大きな木のようだった。雀は大笑いした。  谷間をさらに、奥《おく》へ奥へと飛ぶ。高度が下がってきた。 「竜宮《りゅうぐう》って、空の上にあるんじゃねぇの?」 「竜宮へは、上からは入れんのよ」 「へぇ〜?」  それがどういうことか、雀《すずめ》には測《はか》りかねた。雀の想像《そうぞう》では、天空の竜宮《りゅうぐう》という場所は、高い高い山のてっぺんにある集落という気がする。ちょうど、鬼火《おにび》の旦那《だんな》の天空の庵《いおり》のように。竜宮の中にも空を飛べない者はいると伊吹《いぶき》は言ったが、伊吹のような天空人魚《てんくうにんぎょ》たちは、空から竜宮に降《お》り立つのだろうと、雀は思っていた。 (上から入れないって、どういうことだろうなぁ? でっかい屋根でもあんのかなぁ?)  谷のずっと奥《おく》に飛んできた。ここから先は、谷がぐっと狭《せば》まって深い渓谷《けいこく》となっている。その細く深い岩の間を、縫《ぬ》うように伊吹は飛んだ。高度がさらに下がる。 「谷を抜《ぬ》けたところが、竜宮の入り口じゃ!」 「やったー!」  雀は喜んだ……が。  谷を抜けたところで、伊吹と雀は地上に降りた。そこは、山間のぽかりと開けたところで、そこにあったものは…… 「な、なんじゃコリャ〜〜〜!?」  度肝《どぎも》を抜かれるとはこういうことかと、雀は却《かえ》ってのんびり思ってしまったくらいだった。  雀の度肝を抜いたもの。それは、巨大《きょだい》な白木の階段《かいだん》だった。  巨大も巨大。途方《とほう》もなく巨大。幅《はば》は、雀が十人ほど手を繋《つな》いだぐらい。その階段が、空に向かってどこまでも、どこまでも続いていた。まるで天に届《とど》くかのように。それを支《ささ》える支柱《しちゅう》のでかさもまた途方もなかった。  これはいったいどういう建築物《けんちくぶつ》なのか、考えてもきっと自分には理解《りかい》できないだろうと雀は思った。ただ、ただ圧倒《あっとう》されるのみ。 「大江戸城《おおえどじょう》もすげぇと思ったけど……。これもすげぇよ……。なんつーか……なんつーか……わけわかんねぇ」  呆然《ぼうぜん》と突《つ》っ立った雀を見て、伊吹がにやにやと笑っていた。 「どうじゃ? 面白《おもしろ》かろう。竜宮はこの階段の先にあるんじゃ」 「……すげぇなぁ……」  ため息のように雀《すずめ》は言った。  緑の山々に囲まれ、青い空に向かってそびえる大|支柱《しちゅう》、天国まで届《とど》きそうな白い階段《かいだん》。何もかもすごすぎて、考える力さえ無くしてしまう。しかし、雀はハタと我《われ》に返った。 「この階段を登るのかっ」  階段の先にあるという竜宮《りゅうぐう》まで、いったい何千段登ればいいのか? 「途中《とちゅう》で死ぬぜ! もう握《にぎ》り飯もねぇのに!」 「アハハハハハ!」  伊吹《いぶき》は腹《はら》を抱《かか》えて笑った。 「そりゃあ、人間のお前《め》ぇが登れば途中で行き倒《だお》れじゃなア」  そう言って、伊吹は雀を抱《かか》えるとまた飛んだ。階段を上へ上へと飛び上がってゆく。 「天空人魚《てんくうにんぎょ》のように飛べねぇでも、竜宮の者はこの階段は苦にならん。あっという間に駆《か》け上がれるのよ」 「うっそー! それ、すげぇ!!」  感心する雀の目の前に、階段の先にあるものがみるみる迫《せま》ってきた。 「お……お、お!」  そこは、周りの山々より山ひとつ高い空の上。階段はそこで終わっていた。どこへも繋《つな》がってはいなかった。  階段のてっぺんに、巨大《きょだい》な岩が浮《う》いていた。  これもまた、途方《とほう》もない大きさ。山が一つ浮いているようだった。形はどうやら卵型《たまごがた》のようだが、下からだとよくわからない。 「…………」  雀は、ぽかっと口を開けて浮かぶ岩を見た。  岩は、伊吹《いぶき》の背《せ》より少し高いぐらいの空間に浮《う》かんでいた。あまりに巨大《きょだい》すぎて、上の方がどうなっているのか全く見えない。岩の底より少し上の方に階段《かいだん》があったが、雀《すずめ》にはとても届《とど》きそうになかった。 「さあ、雀。ここが竜宮《りゅうぐう》じゃ。ようこそ!」  伊吹は両手を広げて言った。 「……」  こんな巨大な岩が空に浮《う》いていれば、伊吹と飛んでいた時に見えたのではないかと雀は思った。たとえば、渓谷《けいこく》に入る前あたりとかに。 (そうか……別の空間にあるんだ、きっと。だから上からは入れないんだ) 「あそこに階段が見えるじゃろう。あれを登れば竜宮の村へ入れるのよ。村へはここからしか入れん」 「ふぅ〜ん」 「ところが、天空人魚の儂《わし》でも、ここからあそこへは飛べねぇ仕掛《しか》けになっとる」 「じゃあ、あの階段までどうやって……」 「さあ、そこじゃ!」  伊吹は、パンパンと柏手《かしわで》を打った。すると、上からバサリと粗末《そまつ》な縄梯子《なわばしご》が下りてきた。 「これは、竜宮へ入る関所みてぇなもんじゃ」 「関所?」 「この縄梯子は、竜宮の神様の梯子での」 と、伊吹は真剣《しんけん》な面持《おもも》ちで言った。 「�まっとうな者�しか登れんのよ」 「……えっ!?」 「まっとうに生きてきた者でねぇと、梯子は途中《とちゅう》で切れちまうンじゃ。そいつぁ、竜宮には入れんということじゃ」 「…………」  雀は、またぽかっと口を開けてしまった。 「さあ、雀《すずめ》。登ってみねぇ!」 「え〜〜〜……っ」  梯子《はしご》を握《にぎ》った雀だが、とても登れる自信がなかった。 (そりゃあ、大江戸《おおえど》に来てからはまっとうに生きてきたつもりだけど、その前の俺《おれ》ってば、とてもまともじゃなかったよな。ド外れにもほどがあるほど外れてたよな)  アレやコレやが頭の中をぐるぐると巡《めぐ》り、雀は暗い気分になった。 「でも、竜宮《りゅうぐう》には行きてぇ! 神様、頼《たの》んます!!」  目を閉《と》じ、えいやっと縄梯子《なわばしご》に足をかける。  しかし無情《むじょう》にも、全体重をかけたところで梯子はブッツリと切れてしまった。  どたーんとひっくり返った雀を見て、伊吹《いぶき》がまた腹《はら》を抱《かか》えて大笑いした。 「アハハハハハ! やっぱりのう!」 「やっぱりって……」  落《お》ち込《こ》む雀に、伊吹は軽〜く言った。 「いまだかつて、この梯子を登れたやつはおらんのよ。儂《わし》も含《ふく》めてのぉ」 「なんじゃソリャーッ!」  雀は絶叫《ぜっきょう》した。 「だから、木の梯子を作った」 「は?」 「オーイ、下ろしてくれ!」  伊吹が上に声をかけると、立派《りっぱ》な白木の梯子がするすると下りて来た。それを見て、雀《すずめ》はまた絶叫した。 「先にコレを下ろしやがれ!!」 [#改ページ] [#挿絵(img/04_106.png)入る]   天空の竜宮《りゅうぐう》にて  梯子《はしご》を上り、岩の側面にぐるりと作られた石の階段《かいだん》を登ってゆく。階段からは、はるか地上が見渡《みわた》せた。連なる緑の山々、川や湖。どこまでも海のように広がる大空。そこを行き交《か》うモノたち。美しいが、目のくらむような高さにいることに、雀《すずめ》は冷や汗《あせ》が出た。 「大丈夫《だいじょうぶ》じゃ。落ちやせん」  伊吹《いぶき》が笑った。  階段を上がりきったところで、広場に出た。 「天空の竜宮にようこそ、雀」 「お……」  雀の目の前に、大江戸《おおえど》の町|並《な》みとは全く異《こと》なる風景が広がっていた。  まず目に飛び込《こ》んできたのは、たくさんの「空間を泳ぐモノ」だった。大江戸にも空を飛ぶモノは多いが、さすがに竜宮というだけあって、ここには雀も知っている水生動物の形をしたモノが、空に散りばめられたように漂《ただよ》っていた。魚たちは群《む》れになって、クラゲたちは優雅《ゆうが》に、微生物《びせいぶつ》のようなものは風に揺《ゆ》られながら、皆《みな》空間を気持ち良さそうにたゆたう。しかもその色とりどりの鮮《あざ》やかなことといったら、まるでお祭だ。 「海……、海だ!」  雀は、元の世界のテレビで見た、海の中の映像《えいぞう》を思い出した。 「珊瑚《さんご》と魚でいっぱいの、南の方の浅い海……。その海の中から海面を見上げてるみたいだ!」  これこそが、「竜宮」たるゆえんなのだろうと、雀は実感した。  天空魚《てんくうぎょ》たちは、実にさまざまな色と形をしていた。大きいの小さいの、丸いの長いの。それこそ本物の海の魚のように。水に属《ぞく》してはいないのに、まるで水の中のモノのような形。雀《すずめ》には計り知れないが、魔術《まじゅつ》の理《ことわり》の深さをチラリと感じた思いがした。 「ふわぁ〜、これが天空魚《てんくうぎょ》かあ! こんなに近くで見るのは初めてだあ」 「中にゃあ、毒《どく》や雷《かみなり》を身体《からだ》にためとる種類がおるから、地面にいるのを見ても触《さわ》らんようにな」 「そうなんだ!」 「夜地面におるやつは要注意じゃ」  次に竜宮《りゅうぐう》の村に目をやると、そこは、岩の上という限《かぎ》られた空間に作られたゆえに、とても「立体的」だった。家も、商店も、広場も、畑も田んぼも、岩にへばりつくように並《なら》び、それが上へ上へと続いている。 「村全体が段々《だんだん》畑だ……!」  雀は、上の方を見上げた。上には森があり、その前に大きな建物が建っていた。 「あれが竜宮の村役場じゃ。儂《わし》の職場《しょくば》よ」  建物の屋根や壁《かべ》は明るい色で統一《とういつ》されていて、とても華《はな》やかだった。 「ポーが、町並みがカラフルだって言ってたっけ。渋《しぶ》い大江戸《おおえど》とずいぶん違《ちが》う感じがするなぁ。なんか……洋風っぽいような……。あ、そうか! 石|造《づく》りだからだ!」  村には何本もの水路が通っており、水路をまたぐ小さな橋、家と家、畑と田んぼ、上と下、横と横をつなぐ階段《かいだん》がめまぐるしいぐらい多かった。その橋や階段、建物の一部などは石造りだった。大江戸にももちろん石造りの建物などはあるが、ここは村全体が石でできている。通路や小道にも石が敷《し》き詰《つ》められていた。その景色《けしき》すべてが、空に浮《う》かんでいる。どこかまた別の世界の遺跡《いせき》を思わせるような、異国情緒《いこくじょうちょ》が漂《ただよ》う。 「もとが岩じゃからなァ。竜宮にゃあ木が少ないしの」 「そういやあ、夏初《なつは》ちゃんも大江戸の桜《さくら》がすごいからって、見物に来たんだよな」  竜宮にも緑は多い。しかし、脊《せ》の低い木や灌木《かんぼく》が多かった。また、珊瑚《さんご》のようなものや、海藻《かいそう》のようなものが多く見られた。それはそれでまた色とりどりで美しかった。大きな木は、頂上《ちょうじょう》の役場の裏《うら》に固まっていた。 「あそこは鎮守《ちんじゅ》の森だからの」  雀《すずめ》は歩きながら思った。今度はあっちの階段《かいだん》を、今度は向こうの橋を渡《わた》って、どこまでも行きたくなるようだと。 「楽し〜」 「そう言ってもらえると嬉《うれ》しいのぅ。大江戸《おおえど》と違《ちが》って、ちまちました場所じゃからなぁ、ここは」 「いやあ、このゴチャゴチャしたとこが迷路《めいろ》みたいでさぁ、先へ先へ行きたくなるよ」  村の子どもたちが、階段を行ったり来たりして遊んでいる。大きな荷物を頭の上に載《の》せ、階段を登ってゆく村人がいる。それを見て、雀が言った。 「子どもらは、ここで鬼《おに》ごっことかスッゲー楽しいだろうけど、年寄《としよ》りには、階段の上り下りってつらいんじゃねぇ?」 「お前《め》ぇ、ここに来る階段登ってて気づかんかったか?」 「ん?」 「言ったろう、雀《すずめ》。竜宮《りゅうぐう》は、重さのあまり無《ね》ぇ場所じゃと。年寄《としよ》りがてっぺんまで階段《かいだん》を登ったって足にこねぇ[#「足にこねぇ」に傍点]」  伊吹《いぶき》はそう言って、自分の足をペシンと叩《たた》いた。 「……そういうことか!」  雀は、村に入るまで階段をずいぶん登ったことに、今ようやく気づいた。足が疲《つか》れなかったせいだった。 「そうか……。重力が違《ちが》うってことなんだ、ここは……! 村全体ってか、この世界がそうなんだ!」  雀は、階段を思い切り駆《か》け上がり、また駆け下りてきた。足にほとんどなんの負荷《ふか》も感じなかった。 「面白《おもしれ》ぇ———!」 「アハハハ。喜んでもらえたかいの」 「そりゃあ、大江戸にも空を飛ぶ連中がわんさといるんだから、重力なんて関係ねぇんだけど……ここぁ、またすげぇよ! 俺《おれ》まで魔法《まほう》を使えるようになったみたいだ!」  雀《すずめ》は面白《おもしろ》くて楽しくて、田んぼのあぜ道をぴょんぴょん飛び跳《は》ねて行った。そして、田んぼの端《はし》まで行って息を呑《の》んだ。そこは、断崖絶壁《だんがいぜっぺき》だった。 「おわぁあああ〜〜〜!!」  ここが空中都市だということを忘《わす》れていた。とてつもない高さに、気絶《きぜつ》しそうになる。 「アハハハハ。大丈夫《だいじょうぶ》じゃ、落ちやしねぇ。いや、落ちても大丈夫じゃ」  へたり込《こ》んだ雀は、肩《かた》で息をした。頭から血の気が引いた。 「お、落ちても大丈夫って?」 「岩の周りは空間が歪《ゆが》んどるんで、ここから落ちても、村のどこかに落ちてくるんじゃ。子どもらがよくコロコロ落ちるんじゃー。ここは上には広いが、横は狭《せま》いからのぅ〜」  細い目が苦笑いした。雀は大きくため息した。 「そ、そうなのか〜。はぁ〜、びっくりしたぁ。あーでも、落ちても安心だっつっても、俺絶対慣《おれぜったいな》れねぇわ。落ちたら、そのショックで死ぬかも」 「アハハハ。せいぜい気をつけるこったの」  雀は伊吹《いぶき》に立たせてもらった。足がちょっと震《ふる》えた。 「さて。まずは役場に行こうかの。村長に紹介《しょうかい》せねばの」  伊吹と雀は、民家や商店や畑がごちゃごちゃした間を登って行った。  高く登るにつれ、景色《けしき》も広がってゆく。この大岩が浮《う》かぶ空間は別の空間だが、ここから見える外の景色は大江戸《おおえど》がある空間。透明《とうめい》の壁《かべ》が、二つの世界を隔《へだ》てている。 「きっと海の竜宮《りゅうぐう》も川の竜宮も、こういうところなんだろうなぁ」  雀はその不思議に思いを馳《は》せた。 「おや、伊吹さん。帰ったかいエ」  庭先で洗濯物《せんたくもの》を取り込んでいたおかみが声をかけてきた。 「おうサ。今日もエエ日和《ひより》で良かったのぉ」 「あっ、じゃあ、その子が雀かイ?」 「おお、そうじゃ。連れてきたぞ〜」  雀《すずめ》は、ぺこりとお辞儀《じぎ》をした。 「こんちわ!」 「あんたのかわら版《ばん》は読んどるよ! 伊吹《いぶき》さんらが大江戸《おおえど》に行った時には、忘《わす》れず買ってきてもらうんサ! いつも楽しみにしとるよ」  こんなところにも、自分のかわら版を読んでくれている者がいると、雀は嬉《うれ》しくなった。 「ありがとう! 天空の竜宮城《りゅうぐうじょう》の見聞録も書くよ!」 「アラまあ、照れちゃうねぇ!」  竜宮のおかみも、雀の住む長屋のおかみたちと一緒《いっしょ》だった。大らかで、優《やさ》しそうだった。 「よう、伊吹さん」 「アイ、ごきげんさん」  階段《かいだん》ですれ違《ちが》う者たちが、よく声をかけてきた。伊吹はよく知られた顔らしい。 「竜宮はせまい村だからのぉ、みいんな顔見知りヨ。役場に勤《つと》めとるもんは、みんなの世話役みたいなもんじゃから」 「そういやあ、さっきから人型ばっかり見るなぁ。竜宮の人って、みんな人型なのかイ?」 「そうでもないが……、確《たし》かに人型は多いかのぉ。お、見てみな、雀」  伊吹が指さす方を見ると、狭《せま》い畑で鍬《くわ》をふるう者がいた。 「精《せい》が出るね、ヤノ輔《すけ》どん」  そう言われて振《ふ》り向いた者は、着物を着た魚だった。着物からは人の腕《うで》と足が出ているのだが、顔はどこからどう見ても魚だった。鯛《たい》っぽかった。 「オオ、伊吹どん。今年《ことし》は大根がよくできとるで、楽しみだの」 「大根の煮《に》たのに味噌《みそ》をつけて一杯《いっぱい》」 「たまらんのぅ〜」  伊吹は笑って手を振《ふ》った。魚の農夫も手を振った。笑っているようだった。 「……む〜ん」  伊吹の後について階段を登りながら、雀は唸《うな》ってしまった。大江戸にも、獣面《けものづら》、虫面いろいろな種族がいる。水辺で魚族とも話をしたことがある。だが、ヤノ輔《すけ》どんのような魚人《ぎょじん》には、雀《すずめ》は会ったことがなかった。 「畑を耕《たがや》す魚……か」  この奇妙《きみょう》が、雀は面白《おもしろ》くもあった。 「そぉか、大江戸《おおえど》に今みたいな魚人を見かけねぇのは……、そいつらは竜宮《りゅうぐう》にいるからなんだ、海とか川とかここの!」  雀は、ぽんと手を打った。伊吹《いぶき》は頷《うなず》いた。 「そういうことじゃ。特定の地域《ちいき》を離《はな》れちゃ生きられねぇ種族は多いぞ」 「そうかぁ。そうだよな〜」  まだまだ、雀が見たこともないような種族がいる。雀は胸《むね》がときめいた。 「もっとも、ここの竜宮のもんは大江戸でも暮らしていけるがの」 「ヤノ輔どんでも?」 「ヤノ輔どんでも。だが、大江戸は空気が悪ぃ」 「そうか? ああ、ここと比《くら》べるとそうかもなぁ。水もここの方が良さそうだぁ」  雀の足元の水路を、水が流れてゆく。いかにも透明《とうめい》で美しい水だった。 「この水はどっから来るんだイ?」 「鎮守《ちんじゅ》の森じゃ」  その鎮守の森の前に建つ役場に着いた。 「お、窓《まど》にガラスが嵌《は》められてる〜。深川《ふかがわ》のキャフェーみたいだな」 「うちはギヤマン作りの村とやり取りが多いもんでの」 「天空魚《てんくうぎょ》を入れる器にするんだろ」  役場では大勢《おおぜい》の者が働いていた。到着《とうちゃく》した飛脚《ひきゃく》や窓口にやってきた者に対応《たいおう》したり、書類に取り組む者がいたり、何やら話し合っている者たちがいた。壁《かべ》には天空魚の絵が飾《かざ》られ、一年の予定表のようなものとか、出荷《しゅっか》表らしきものも張《は》られていた。 「お〜……行ったことないけど、大江戸の奉行所《ぶぎょうしょ》なんか、こんな感じかなぁ?」 と、雀は興味深《きょうみぶか》げに役場内を見学した。  すると、伊吹《いぶき》を見てつかつかと寄《よ》ってくる魚人《ぎょじん》がいた。 「伊吹さん! あんたまたハンコを貰《もら》うの忘《わす》れたね!」 「えっ? あー」  魚人が突《つ》きつけてきた伝票を見て、伊吹は頭を掻《か》いた。 「取引先にはちゃんとハンコを貰いなさいと、何度も言ってるでしょーが! ほんとあんたはいつもいつも!」 「すんません。次からは必ず」  細い目が、大して反省をしている風でもなく苦笑いした。 「そう言っていつもいつも忘れるンだから!」  魚人はプンプンと怒《おこ》った。そこに、別の役人が声をかけてきた。 「オイ、伊吹。吉井屋《よしいや》の住所を調べておいてくれと言うたろう。あれ、どうなった?」 「あ、アレ! 調べた! 調べたけど、え〜と……」  伊吹は自分の机に向かったが、そこには書類やら筆やら草紙《そうし》やらナニやらカニやらが山積みされていた。そこをガサゴソする伊吹を見て、役人は「お前なあ」とため息した。  雀《すずめ》は肩《かた》をすくめて笑ってしまった。 (ひょっとして伊吹さんって、うだつの上がらねぇ平社員って感じ?) 「まーまー、今日はお小言《こごと》はなしに。村長は? 大首《おおくび》のかわら版《ばん》屋の雀を連れてきたぞ〜」  役場にいた者たちが、皆《みな》雀の方を見た。 「おお、その子がそうか!?」 「いつもかわら版読んでるよ〜」 「村長が喜んどったよ。姪《めい》っ子助けてもらってサア!」 「いやいや、いやいや」  皆に歓迎《かんげい》してもらい、雀は盛大《せいだい》に頭を掻いた。  雀が通された奥《おく》の間で、村長が待っていた。伊吹や夏初《なつは》と同じ人型の、指の間に薄《う》っすらと水掻《みずか》きのある、優《やさ》しそうでふくよかなおじさんだった。 (……ということは、この人も人魚なわけだ)  雀《すずめ》はプッと笑いたいのを堪《こら》えた。 「いやあ、よく来た、雀。儂《わし》は竜宮《りゅうぐう》の村長の天岡《てんこう》じゃ」 「大首《おおくび》のかわら版《ばん》屋の雀です。お招《まね》きありがとうございます」 「こっちこそ。その節は夏初《なつは》が世話になったの。あれは、わしの娘《むすめ》も同然。何かあったらと思うとゾッとする。よう助けてくれた」  天岡村長は雀を抱《だ》き、背中《せなか》を叩《たた》いた。 「あれは儂に黙《だま》って大江戸《おおえど》へ行ったもんだから、そこで騒《さわ》ぎを起こしたと言い出しづらくての。話を聞くまで時間がかかってしもうた。礼が遅《おく》れてすまんことをしたよ」  雀は首を振《ふ》った。 「礼なんていいのに。でも、竜宮へ来られて良かったよ」 「村の様子は見たかェ? どうだ、お前さんにゃあ、面白《おもしろ》い場所だろう?」 「うん! スッゲー面白い! まるで別世界だよ。別の国へ来たみてぇだ」  村長は、うさ屋の親父のように大きな腹《はら》をゆすって笑った。 「そりゃあ良かった! 招いた甲斐《かい》があったってもンだ。どこでも好きなだけ見て行ってくれ。案内は伊吹《いぶき》がする。そうそう、うちの特産物も見せねばの」 「天空魚《てんくうぎょ》だね。いっぱいいたよ」 「そこらを泳いでるやつはザコさ。もっともっと綺麗《きれい》なものを見せてやる。身代《しんだい》が傾《かたむ》くって値打《ねう》ちのやつをな」  村長は、得意げにニヤリとした。 「伊吹、頼《たの》むヨ」 「アイ、お任《まか》せ〜」 「また後でな、雀。今夜は儂の家で歓迎《かんげい》の宴《うたげ》じゃ」 「ありがとう!」  雀は、伊吹に連れられて役場を出た。登ってきた階段《かいだん》とは別の方向へと降《お》りてゆく。 「いい人ばっかりみたいだなぁ」 「小さな村だもんで。みんな身内のようなものじゃ。天空魚《てんくうぎょ》のおかげでそれなりに暮《く》らしていけるしの」  伊吹《いぶき》は、天井《てんじょう》の高い、倉庫のような建物へ雀《すずめ》を案内した。建物の中には、大小も形もさまざまなギヤマンの入れ物がズラリと並《なら》び、職人《しょくにん》らしき者たちが大勢《おおぜい》いた。ギヤマンの中には、ひらひらと舞《ま》い踊《おど》る天空魚が何百|匹《ぴき》も群《む》れていた。 「うわ〜〜〜、水族館みてえ!!」 「これが天空の竜宮《りゅうぐう》の特産物じゃ」  天空魚の種類は多いが、いずれもまるで天女《てんにょ》の羽衣《はごろも》のような大きくて美しい鰭《ひれ》を持っており、その華麗《かれい》な姿《すがた》と、優雅《ゆうが》な泳ぐ様はまさに生きた宝石《ほうせき》のようで、なるほど金持ちが高値《たかね》をつけるわけだと、雀は納得《なっとく》がいった。 「綺麗《きれい》だ〜!」 「そうじゃろう? ふっふっふ」  ギヤマンに顔をくっつけんばかりに見入る雀を見て、伊吹が得意げに笑った。  色は、赤一色、黒一色、黄色、紫《むらさき》、桃色《ももいろ》、純白《じゅんぱく》、色とりどりで、まだらに縞模様《しまもよう》、水玉なんていうのもある。羽衣のような鰭から、ピンとまっすぐ伸《の》びた鰭、身体《からだ》の何倍もの鰭をたなびかせる種類もある。目はくりっとつぶらで口はおちょぼ口。とても愛らしい顔をしている。金持ちのなかには、実の娘《むすめ》のように可愛《かわい》がっている客もいるとか。 「確《たし》かに……これをギヤマンの器《うつわ》に入れて床《とこ》の間《ま》とかに置いて眺《なが》めていたら……飽《あ》きねぇかも」 「一|部屋《へや》をまるまる天空魚用の部屋にして、何匹もそこへ放しているお大尽《だいじん》もいるぞ」 「そうか、天空魚は空気の中を泳ぐから、その部屋で自分も一緒《いっしょ》にいられるんだ。ひゃ〜、風流《ふうりゅう》ですなー」 「アハハハ」 「雀さん!」  駆《か》け寄《よ》ってきたのは、夏初《なつは》だった。作業着らしいはんてんを羽織《はお》っている。 「あ、夏初《なつは》ちゃん!? なんでここに?」 「夏初は、天空魚《てんくうぎょ》の飼育職人《しいくしょくにん》の卵なんじゃ」 「そうなんだ!」 「来てくれたのね、雀《すずめ》さん」 「お招《まね》きありがとう。すっげー楽しいよ!」 「本当? 嬉《うれ》しい」  雀は、天空魚を見て言った。 「すごいね。綺麗《きれい》だね、天空魚。動く宝石《ほうせき》って感じだ」  夏初もギヤマンの向こうの天空魚を見つめた。その眼差《まなざ》しは誇《ほこ》らしげだった。 「うん。本当に宝石なの。ただ綺麗なだけじゃなくて、竜宮《りゅうぐう》のみんなの生活を支《ささ》えてくれている宝石なのよ」 「夏初ちゃんも、天空魚を育てる飼育職人なんだってな?」 「うん」  夏初は、恥《は》ずかしそうに頷《うなず》いた。 「でもまだまだ全然」 「アハハハ」  伊吹《いぶき》が笑った。 「そりゃそうじゃー。値《ね》がつくものを育てるにゃあ、軽く十年は修業《しゅぎょう》せんとなぁ。夏初はまだ三年目……か?」  夏初は、また恥ずかしそうに頷《うなず》いた。 「じゃあ、七年後が楽しみだなぁ」  雀がそう言うと、夏初の瞳《ひとみ》は嬉《うれ》しそうに輝《かがや》いた。 「後で家に来て、あたしの天空魚を見てね」 「ここにいるんじゃねぇの?」 「ここにいるのは、親方たちが育てたすぐに売れるものだけなの。あたしのは、まだまだ趣味《しゅみ》で飼《か》ってるようなものなんだ」 「へぇ〜、厳《きび》しいなぁ」  夏初《なつは》は、くるりと伊吹《いぶき》の方を向いて言った。 「伊吹さん、ちゃんと雀《すずめ》さんを案内してね。雀さんに竜宮《りゅうぐう》のいいところをかわら版《ばん》に書いてもらって、大江戸《おおえど》のみんなに竜宮の天空魚《てんくうぎょ》のことをもっともっと知ってもらうんだから。いつもみたいにサボってちゃダメよ」 「厳《きび》しいのぉ」  伊吹は頭を掻《か》いた。 「じゃ、雀さん。また後でね」  夏初は手を振《ふ》って走ってゆくと、師匠《ししょう》らしき職人《しょくにん》のもとに戻《もど》り、何やら作業を始めた。 「村長の姪《めい》っ子なのに、ちゃんと修業《しゅぎょう》してるんだ。えらいなぁ」 「夏初は、嫁修業《よめしゅぎょう》して嫁に行くより、天空魚の飼育《しいく》職人になる方がええらしい」 「好きだなぁ、そういう女の子」 「あ〜、爽《さわ》やかじゃのぉ〜。若《わか》いもンはええのぉ〜」  伊吹は、細い目をさらに細めた。 「伊吹さんだって、まだ若いだろ!?」 と言った雀だが、見た目と実年齢《じつねんれい》がまるで違《ちが》う場合も、この世界では多々あることは知っていた。 「いやいや。儂《わし》ぁ、どうも女にモテなくて……。雑用《ざつよう》はよく頼《たの》まれるンじゃが」 「仕事をちゃんとしねぇからじゃねぇの?」 「アハハハハ、厳しいのー! アハハハハ」  それから雀は、天空魚をじっくり見て回ってから、また村の中を案内してもらった。 「お、牛だあ!」  狭《せま》いが青々した牧草地に、白黒の牛が二〜三十頭放たれていた。 「村で飼《か》っとるのよ。竜宮の村のもんは、大江戸っ子よりも、牛の乳《ちち》をよく飲んどるんじゃねぇか?」 「それすげぇ! 俺《おれ》、こっちへ来てから乳なんて飲んでねぇよ! いや、飲まなくても別にいいんだけど。大江戸じゃあ、乳は高級品だ。あ、じゃあ牛の肉とかも喰《く》ってる?」 「牛の肉は、バラした時に配られることになっとる。ガキどもは喜ぶのぅ」 「やっぱ、牛肉は美味《うま》いもんなぁ〜。大江戸《おおえど》じゃあ、肉は鶏《にわとり》が普通《ふつう》だけど」 「ここでも肉は鶏が普通じゃよ。儂《わし》ぁ、牛より鶏の方が好きじゃ」 「牛肉は上の方の方々ぁ、よく喰《く》ってるらしいけどサ。大江戸じゃあ、牛肉を喰うのは一種の特権《とっけん》みたいなもんだからな」  大江戸にはもちろん、牛化け、鶏化け、豚《ぶた》化けたちがいる。そのモノたちと、食用の牛や鶏がいる……ということは、明確《めいかく》に分けられているらしい。というか、全く別次元の話らしい。雀《すずめ》には、やはりよくわからない。食用の鶏と鶏化けの「境界線《きょうかいせん》」は、どこにあるのか、そもそも境界線があるのかすら、別次元とはどういうことなのか、雀にはわからない。説明されても多分わからない。  茶店があったので、一休みすることにした。 「大江戸ほど上等な菓子《かし》は、ここにゃあ無いがの」  素朴《そぼく》な団子《だんご》とお茶《ちゃ》が出てきた。 「プリンを作りゃあいいんだ。乳《ちち》がいっぱいあんだから。あ、でも氷箱《ひばこ》がないとダメかぁ」 「ぷりん?」 「牛乳《ぎゅうにゅう》を使ったお菓子って、他《ほか》に何があったっけな〜。ケェキとか? どうやって作るんだっけ?」  団子を頬張《ほおば》った雀は、茶屋からの眺《なが》めにはっとした。竜宮《りゅうぐう》はどこでもそうなのだが、天空に浮《う》かんだ場所だから、ただ茶屋に座《すわ》っているだけでもそこからの眺《なが》めは壮大《そうだい》なものだった。地平線まで広がる山と森。遠くに田畑がうねうねと横たわり、村落の屋根が点となって固まっている。遥《はる》かに見える青い帯は海だろうか。大空の広がりは果てしなく、時折何者かがそこを横切ってゆく。 「ただの団子でもさぁ、この景色《けしき》を見ながら食べるんだから充分《じゅうぶん》ごちそうだよなぁ〜」  雀《すずめ》は、団子《だんご》を噛《か》みしめて「んん〜」と唸《うな》った。もっちりとした団子は、ほんのり甘《あま》かった。 「儂《わし》らぁ、慣《な》れっこで、あまり感じないがの」  伊吹《いぶき》は、薄《うす》く笑った。雀も苦笑いした。 「わかる。地元の奴《やつ》ってそうだよな」  遅《おそ》い午後。  夏の陽《ひ》はようやく傾《かたむ》きだして、青空が青さを増《ま》してきた。  空気が澄《す》んでいるせいか、子どもたちが遊ぶ声がよく聞こえる、静かな村。そろそろ夕飯の支度《したく》時なのか、家々から煙《けむり》が細く立ち上っている。  雀は、しばらく茶屋で座《すわ》ったまま、黄昏《たそがれ》てゆく竜宮《りゅうぐう》の空を眺《なが》めていた。青空は刻々《こくこく》と色を濃《こ》くし、薄青《うすあお》と濃い青に分かれてゆく。白く、黄色く、赤く変化しながら、ゆっくりと山の向こうへ沈《しず》もうとしている太陽。それに伴《ともな》って、竜宮も徐々《じょじょ》に黄昏色に染《そ》められてゆく。その色彩《しきさい》を身体《からだ》に映《うつ》して、優雅《ゆうが》にたゆたう天空魚《てんくうぎょ》たちがいっそう美しかった。チカチカと発光するモノも多く見られた。  口をぽかっと開けっぱなしの雀に、伊吹がそっと声をかけた。 「暗くなると、もっと光るぞ」  雀は、ハッと伊吹を見た。 「ごめっ……! 俺《おれ》、ぼーっとしてた!」 「アハハハ。村の景色《けしき》に見惚《みと》れてくれて嬉《うれ》しいのぉ。じゃが、茶屋ももう閉《し》めるし、そろそろ行こうかの」 「ごめんごめん」  雀は慌《あわ》てて立ち上がった。茶屋のおかみが、笑って見ていた。  村長の家へ行く前に、雀は夏初《なつは》の家へ寄《よ》った。夏初の祖母《そぼ》と母に、雀は大|歓迎《かんげい》された。  夏初の母は、天岡《てんこう》村長の妹だった。夏初の父は、夏初が小さい頃亡《ころな》くなったので、村長はいろいろと夏初の家族に目をかけ、村長には女の子どもがいないこともあって、夏初を自分の娘《むすめ》のように可愛《かわい》がっていたのだった。  雀《すずめ》は、夏初《なつは》の部屋《へや》へ案内された。そこには大きなギヤマンの入れ物があり、夏初が育てているという天空魚《てんくうぎょ》が五|匹《ひき》、たゆたっていた。それは、昼間飼育場で見た天空魚ほど華麗《かれい》ではないが、雀には充分《じゅうぶん》美しく見えた。 「充分|可愛《かわい》くねぇ?」 という雀に、夏初は首を振《ふ》った。 「まだまだ。これじゃあ、一匹十両にもならないわ」 「天空魚って、そんなに高ぇの!? ホント、平民にゃあ手が出ねぇなぁ」 「天空魚そのものの価値《かち》を保《たも》つために、高級なものしか出荷《しゅっか》しちゃダメなの」 「なるほど〜」 「でも、タダであげるのは構《かま》わないのよ」  夏初は、にっこりと笑った。それから天空魚たちに向かって、ちっちと口を鳴らした。 「おいで。紫《むらさき》」 「紫」と呼《よ》ばれた一匹が、ふわふわと夏初に近づいてきた。 「呼ばれたら反応するんだ!」  雀はびっくりした。  ぷりっと丸い紫色の身体《からだ》に、黄色の線の入った鰭《ひれ》をまとった「紫」は、粋《いき》な色合いのわりに口許《くちもと》が赤くて可愛らしい顔をしていた。「紫」はギヤマン越《ご》しに夏初と向き合い、おちょぼ口をぱくぱくさせた。 「この子を、蘭秋太夫《らんしゅうたゆう》にあげようと思っているの」 「そいつぁ、いいや。太夫、きっと喜ぶぜ。アレでも可愛いもんが大好きなんだ」 「そう? 良かった!」 「タマルに狙《ねら》われねぇよう、気をつけねぇとな」  その後は、夏初家族も伴《ともな》って村長|宅《たく》へ行き、皆《みな》で夕飯を食べた。宴席《えんせき》には、竜宮《りゅうぐう》の地産のものが並《なら》んだ。 「これって、天空魚《てんくうぎょ》の塩焼き!?」  魚料理を見て仰天《ぎょうてん》した雀《すずめ》は、皆《みな》に大笑いされた。 「生憎《あいにく》天空魚は食えないんじゃ。そりゃあ、川魚じゃ。ここにゃあ、川も池もあるからの。水に棲《す》む魚もおるよ」  伊吹《いぶき》に説明されて、雀も笑った。 「ああ、びっくりしたあ!」  野菜、卵《たまご》、魚、鶏《にわとり》……素朴《そぼく》だが、どれもツヤツヤと新鮮《しんせん》で美味《うま》そうなところが、この村の豊《ゆた》かさを現《あらわ》しているようだった。そして、器《うつわ》に入った白い液体《えきたい》。 「ははは、牛乳《ぎゅうにゅう》だ。なつかしー」 「大江戸《おおえど》じゃ、めったに飲めんシロモノだろう?」  村長は得意げに言った。  最後に牛乳を飲んだのはいつだっただろうと、雀の胸《むね》は少し切なくなった。 「こんな味だったっけ……?」  それすらもはっきりと思い出せない。 「さーさー、大江戸の料亭《りょうてい》料理とはとてもいかんが、味は負けねぇ。どんどん食べてくれ、雀」 「アーイ。いただきま——す!」  雀は、ピカピカの自飯を頬張《ほおば》った。  宴《うたげ》は夜|遅《おそ》くまでなごやかに続き、雀はその夜は村長の家に泊《と》まることとなった。  伊吹に部屋《へや》に案内され、縁側《えんがわ》の障子《しょうじ》を開けると、それは見事な満月が、すぐそこに見えた。 「うおっ、スゲ———! 手が届《とど》きそうだ!」  群青《ぐんじょう》の空を、キラキラチカチカ光るモノたちが漂《ただよ》っている。珊瑚《さんご》のような樹木《じゅもく》の中にも、ぼんやりと発光しているものがあった。夜の竜宮もまた美しかった。  月明かりに照らされた庭の薄闇《うすやみ》の中に、地上に降《お》りてきている天空魚たちがいた。眠《ねむ》っているようだった。 「要注意」  雀《すずめ》は自分に言い聞かせた。 「やー、エエ夜だの」 「あ、布団《ふとん》しいてくれたのかい、伊吹《いぶき》さん。ありがとう、そんなことまで」 「いやいや〜、今日《きょう》は雀のおかげで酒にありついたようなもんじゃからのぉ。酒も白飯も久々《ひさびさ》で嬉《うれ》しかったぞ」  伊吹の言葉を聞いて、雀は、竜宮《りゅうぐう》の者たちは普段《ふだん》からとても質素《しっそ》なのだと知った。 「こんなに豊《ゆた》かなのに? いつもは麦飯なのかい?」 「麦入り飯じゃ。ここぁ、農耕地《のうこうち》が狭《せま》いもんで米は充分《じゅうぶん》じゃないが、乳《ちち》も毎日飲めるしの。卵《たまご》も、肉もある。上等よ」 「こんな小さな村なのに。贅沢《ぜいたく》したって大したことないんじゃねぇ?」 「こんな小さな村じゃからこそ、贅沢は命取りじゃ」  伊吹のその口調は、昼間の軽いものとは違《ちが》った。雀は意外に思った。 「それにの、贅沢ってのは、たまにするからいいんじゃ。今日の白飯も酒も、そりゃあ美味《うま》かったぞ〜」 と、伊吹は軽い調子に戻《もど》って笑った。 「それ、言えてる!」  雀も笑った。  その夜、雀は初めての旅の空の下。客用のちょっとふっかりした布団で眠った。 「桃源郷《とうげんきょう》みたいな場所だけど、ここでも暮らしていけねぇ奴《やつ》がいるんだ。大江戸《おおえど》に出稼《でかせ》ぎに出てる奴がいるって言ってたもんな。それか……そんな奴らは、はみだしモンなんだろうか。どこにでもいるもんな。周りとうまくやれない奴って……」  心も身体《からだ》も満足し、柔《やわ》らかい布団でうとうとしながら雀は思いを巡《めぐ》らせた。  すべての者が、何の憂《うれ》いもなく暮らしてゆけていないところが、雀は大事なのだと思った。雪消《ゆきげ》も言った。何の憂いもない世界などありはしないと。  特産物である天空魚《てんくうぎょ》が金になって村は潤《うるお》って、でもその恩恵《おんけい》にあずかれない者もいる。それは、きっとどこでも同じこと。そこに居られない者は、別の場所で、別の方法でうまくやるしかない。 「それでいいんだ、きっと……」  月明かりが、障子《しょうじ》を通して部屋《へや》の中まで射《さ》し込《こ》んでいた。白く輝《かがや》く障子を、青や赤の光がゆっくり横切ってゆく。雀《すずめ》は眩《まぶ》しいと思いつつ、いつの間にか眠《ねむ》ってしまった。 [#改ページ] [#挿絵(img/04_139.png)入る]   雀、神と会う  竜宮《りゅうぐう》は、朝も静かだった。響《ひび》くのは鶏《にわとり》の声だけだった。 「そうか。みんな家で鶏を飼《か》ってるんだな」  庭の井戸《いど》で歯を磨《みが》きながら、雀は上の方を見上げた。竜宮のてっぺんの鎮守《ちんじゅ》の森から、わずかに鳥たちの囀《さえず》りが聞こえた。ここが雀の長屋なら、朝のとっぱしから夫婦喧嘩《ふうふげんか》の声だの、子どもの泣き声だの、井戸端《いどばた》でしゃべくるおかみたちの大声だの、物売りの声だので、わぁわぁいっているところだ。雀はそれを思い出して笑えてきた。 「うわ——い、卵《たまご》かけご飯だ! 俺《おれ》、大っ好きなんだ!」  村長|宅《たく》での朝飯は、炊《た》きたての白飯と生卵、菜っ葉の味噌汁《みそしる》と川海苔《かわのり》の佃煮《つくだに》だった。 「こんな質素《しっそ》なものを喜んでもらえて嬉《うれ》しいよぅ」  村長夫人は顔を赤くした。 「美味《うま》いものに質素も何もねぇよ。うわっ、この卵|温《あった》けえ! 産みたてなんだ!」  白飯の上にぱかんと割《わ》られた鮮《あざ》やかな濃い黄色をした卵は、箸《はし》を入れてもなかなか崩《くず》れなかった。醤油《しょうゆ》をちょっとたらして、一気に掻《か》きこむ。 「うめ———イ!」 「卵とご飯はいっぱいあるから、たんと食べとくれ」  透《す》き通る朝の空気と静謐《せいひつ》。澄《す》んだ水で作られた米と味噌と野菜。これに勝《まさ》る美味《びみ》があろうか。雀は、卵かけ飯を二|杯《はい》と、味噌汁と川海苔の佃煮でまた山|盛《も》りの飯を喰《く》った。 「ヨー、雀」  庭先に伊吹《いぶき》がやって来た。 「おっはよー、伊吹さん!」 「よく眠《ねむ》れたか?」 「うん。ちょっと上等な布団《ふとん》で寝《ね》て、お大尽《だいじん》になった気分だったぜ」 「アハハハハ! ちんまいお大尽もいたもんだの」  縁側《えんがわ》でお茶を飲んで一服した後、伊吹が雀に問うた。 「さぁて、雀はどこか行きてぇとことかあるかの? してぇこととか?」 「んっとな、昨日《きのう》はもう見てるだけで終わっちまったから、もっぺん飼育《しいく》場とか村ン中とか、じっくり見てぇんだ。キュー太に絵を描《か》いてもらうのにスケッチもしなきゃならねぇし、記事の文章も考えなきゃならねぇしサ」 「わかった。ほんじゃま、ぼちぼち行くかの」  それから雀は、手帳|片手《かたて》にまた村中を歩き回った。  雀が初めて見た時の竜宮《りゅうぐう》の印象とか、竜宮の様子、村の風景を細かく手帳に書き込《こ》んでゆく。天空魚《てんくうぎょ》の飼育《しいく》場にも行き、飼育|職人《しょくにん》たちに話を聞いた。 「へぇ〜、天空魚って、風の精《せい》を喰《く》うんだな」  天空魚の餌《えさ》となる風の精『風点《ふうてん》』は、雀《すずめ》の小指の爪《つめ》ほどの小さな、半透明《はんとうめい》な鞠《まり》のような形をしており、容器《ようき》の中でくるくると回転運動をしていた。 「この風点は、どこにでもいるっちゃあいるんだが、天空の竜宮《りゅうぐう》産のものを喰わせた方が、天空魚の色艶《いろつや》も良くなるし、長生きもするのよ」 と、職人は言った。 「それは、やっぱり大江戸《おおえど》の空気が汚《よご》れてるからかイ?」 「というより、ここの空気がいいんだろうのう」 「ふぅ〜ん」 「というわけで、竜宮は天空魚の餌も出荷《しゅっか》して儲《もう》けるってわけじゃ」  伊吹《いぶき》が茶化すように言った。職人がじろりと睨《にら》んだ。飼育場を出てゆく伊吹に、 「さぼってねぇで仕事しろよ、下《した》っ端野郎《ぱやろう》」 と、職人から声が飛んだ。伊吹は苦笑いしながら頭を掻《か》いた。 「ここじゃあ、天空魚に携《たずさ》わる職人たちが一番エライんじゃ。その長が村長での」  村を歩きながら、伊吹が言った。 「次が農夫、役場で働くもんが一番|格下《かくした》じゃ」 「そうなんだ! 大江戸じゃあ、役所で働く役人たちが一番えらそうだけど……。そうか、ここにゃあ侍《さむらい》はいねぇもんな」 「地方の村じゃ、自分らの命を養ってくれるものを生み出す奴《やつ》が一番エライもんじゃ。それは米であり、特産物であり……」 「うん」  狭《せま》い農耕地《のうこうち》で、雄大《ゆうだい》な眺《なが》めを背景《はいけい》に村人たちが農作をしていた。子どもたちが手伝っていた。 「夏初《なつは》がそうしとるように、村のもんはみんな家で天空魚を育てとる。そこから金になる一|匹《ぴき》が生まれることを願うての。じゃが、飼育職人になる才能《さいのう》のある奴《やつ》は、やっぱり限《かぎ》られとる。たいがいのもんは、農民として米や野菜や牛を育てるんじゃ」  でも雀《すずめ》には、それが、大地に生きる者の正しい在《あ》り方《かた》のような気がした。 「学校とかあるのかイ?」 「寺子屋のことかの? ああ、役場のもんが読み書きを教える日ってのがある。来る来ねぇはガキどもの自由じゃが。やっぱりガキは、読み書きより遊びだからのぉ」 「アハハハ」  その時、頭上から声がした。 「伊吹《いぶき》—」  雀と伊吹が見上げると、浮遊《ふゆう》するクラゲのようなものの触手《しょくしゅ》に片足をかけ、ふわふわと浮《う》いている子どもが手を振《ふ》っていた。 「藤二《とうじ》!」  子どもはゆるゆると降《お》りてくると、地面に降り立った。クラゲの触手を手に持ったまま立つその姿《すがた》は、まるで友だちと手を繋《つな》いでいるようだった。 「とうとう手懐《てなず》けてしもうたか」 「へへへへー」  子どもは、得意そうに笑った。伊吹は、クラゲを指差して雀に言った。 「これは天空魚《てんくうぎょ》の一種で、光水《こうすい》というモンでの」 「ぽちって名前つけた!」  藤二が嬉《うれ》しそうに言った。 「お前《め》ぇ、このクラゲみてぇなのと友だちなのかイ」  雀は驚《おどろ》いた。藤二は大きく頷《うなず》いた。 「……そうだった。天空魚って俺《おれ》らの言うことが通じるんだったよな!」  夏初《なつは》のところの「紫《むらさき》」も、夏初の呼《よ》びかけに反応《はんのう》していた。 「まぁ、話が通じる種類は限《かぎ》られとるがの。でも、お前ぇはエライよ、藤二。野生の天空魚を手懐けるなんざ、根気がいることじゃー」 「これでオレも、伊吹みてぇに空を飛べる!」  藤二《とうじ》は人型だが、天空人魚《てんくうにんぎょ》ではないようだった。 「アハハハ。お前《め》ぇ、空を飛びたかったんか。アハハハ」  藤二は、ぽちに乗って空を飛んで行った。 「天空人魚って、飛べない奴《やつ》の憧《あこが》れなんだな」  雀《すずめ》がそう言うと、伊吹《いぶき》はしきりに頭を掻《か》いた。 「そう言われると照れるのー。儂《わし》ぁ、親も家も田畑《でんぱた》もねぇし、まして天空魚《てんくうぎょ》の職人《しょくにん》になる才もねぇし、やっとこ役場の下《した》っ端《ぱ》をやらせてもらっとる身ヨ。まこと、空を飛べて良かったと思うのぉ。役人とは名ばかりの、ただの飛脚扱《ひきゃくあつか》いでもかまうもんかイ。雑用《ざつよう》も喜んでやらせてもらうぞ〜」  伊吹は糸のような目で、明るく逞《たくま》しく笑った。 「伊吹さんはどこに住んでるんだイ?」 「役場の二階にいくつか部屋《へや》があっての。役場のもんなら泊《と》まれるのよ。自炊《じすい》もできる」 「ひょっとしてそこに一人《ひとり》? 淋《さび》しくないかイ?」 「アハハハ、なんのなんの。ガキんちょじゃあるまいし」  昼飯は茶店で、麦飯にあんかけ豆腐《とうふ》をのせたものと、出汁《だし》で煮《に》た大根にねり味噌《みそ》を添《そ》えたものを喰った。 「うわー、このねり味噌《みそ》、うめ——イ!」 「飯に載《の》せて喰《く》っても美味《うめ》ぇぞ〜」 「大根も飯も、いっくらでも喰《く》えるな!」  飯を喰いながら、雀は手帳と顔を突《つ》き合わせた。 「ん〜、村の様子はあらかた見て回ったし、スケッチもできたな。伊吹さん、俺《おれ》、今日《きょう》帰るよ。送ってくれる?」 「まぁまぁ、雀。そう急がんでも。帰るなら明日《あす》にせんか?」 「でも、もう一|晩《ばん》お世話になるのもなー」 「なんの、遠慮《えんりょ》なんぞするねぇ。昼から、エエとこに案内してやるぞ」 「エエとこ? ホント?」  伊吹《いぶき》はにやりと笑った。 「お前《め》ぇにゃあ、興味深《きょうみぶか》い場所だろう。大首《おおくび》ンとこには、明日《あす》帰ると知らせとくヨ」  雀《すずめ》と伊吹はゆっくりと昼飯を食べ、大空の向こうから雨雲の塊《かたまり》がやって来るのを、茶を飲みながら眺《なが》めていた。雨を着物の裾《すそ》のようにひきずりながら雨雲は風に運ばれ、竜宮《りゅうぐう》のすぐ上を通り過《す》ぎていった。雨雲が太陽を遮《さえぎ》って竜宮は灰色《はいいろ》の薄闇《うすやみ》に包まれたが、それだけだった。雨雲はやがて通り過ぎ、竜宮にはまた陽が射《さ》した。 「ここって、雨が降《ふ》らないんだ!?」  雀は驚《おどろ》いて声を上げた。 「そうじゃのぉ。壁[#「壁」に傍点]に邪魔《じゃま》されるんじゃろうなぁ」 「不思議だぁ〜……。じゃ、ここの水はどっから来んの? 鎮守《ちんじゅ》の森からって伊吹さんは言ったけど、雨が降らないんじゃ……」  きょとんとする雀に、伊吹は意味ありげに笑いかけた。 「その秘密《ひみつ》を見せてやるヨ」  伊吹が雀を案内したのは、竜宮のてっぺんの鎮守の森だった。  小さな森ではあるけれど、竜宮のここにだけ、大きな木が密集《みっしゅう》していた。 「鎮守の森じゃ。ここがまぁ、天空の竜宮の中心地といったところかの」 「ふぅ〜ん」  雀には、別になんの変哲《へんてつ》もない森に見えた。こういう場所は、大江戸《おおえど》にもその周辺にもたくさんある。 「入って行ってみねぇ、雀」  伊吹は、また意味ありげに言った。その言い方が気になりつつも、雀は森の中へと歩いて行った。伊吹はついてこなかった。  森の中は鬱蒼《うっそう》としていたが、木漏《こも》れ日《び》が幾筋《いくすじ》も射《さ》し込《こ》み、視界《しかい》は美しい緑色をしていた。大きな天空魚《てんくうぎょ》はいないが、小さなモノたちが眠《ねむ》そうにたゆたっていた。小鳥の囀《さえず》りが聞こえる。おだやかな静けさが満ちた、心地好《ここちよ》い場所だった。 「鎮守《ちんじゅ》の森って、独特《どくとく》だよな。やっぱり神様がいらっしゃる場所って感じがするよな」  ぽかりと開けた場所があった。樹上《じゅじょう》から丸く光が落ちていた。 「お?」  そこに、赤い鳥居《とりい》があった。  その向こうには、雀《すずめ》の腰《こし》ぐらいの石柱のようなものが、ぽつりと立っていた。 「何だろ? 鳥居の向こうにあるってことは、御神体《ごしんたい》なのかな?」  雀は鳥居まで近づいて見てみた。  それは、雀の元の世界で公園などによくあった「水飲み台」によく似《に》ていた。砂時計《すなどけい》のような形で、てっぺんの平な面が少し窪《くぼ》んでいる。 「あ……!」  よく見ると、その窪みには水が満ちていた。 「水が……」  水は窪みから溢《あふ》れ、石柱をひたひたと伝い、大地に滲《し》みこんでいた。  雀は、引きこまれるように石柱に見入った。別にどうということもない、ただの石の塊《かたまり》に見える。しかし、そこから水は滾々《こんこん》と沸《わ》き、溢れていた。 「これが、竜宮《りゅうぐう》の水源《すいげん》!?」  その時、雀の足が鳥居を越《こ》えた。 「……はっ?」  雀は、別世界にいた。  白い、白い大地。  雀はそこに立っていた。雀のすぐ後ろには鳥居があった。そして雀の目の前には、遥《はる》か視界の彼方《かなた》にまで広がる、広大な湖があった。  空はその湖と同じく果てしなく、水面は大空を映《うつ》し、どこからどこまでが空なのか湖なのかわからないぐらいだった。左を見ても右を見ても、白い大地と、湖と、空しかなかった。 「な、なんだ……? どこだ、ここ?」  一瞬《いっしゅん》固まってしまった雀《すずめ》だが、鎮守《ちんじゅ》の森にあった鳥居《とりい》と同じ鳥居があるところを見ると、ここ[#「ここ」に傍点]は、あそこと同じ場所にあるのだと想像《そうぞう》できた。雀は、鳥居を見上げた。 「この鳥居が、別世界へのドアなんだ。鎮守の森は、ここへ繋《つな》がっているんだ。伊吹《いぶき》さんは、これを見せようとした……?」  太陽は見えないが、世界は明るかった。青い青い空に、雲が少し浮《う》かんでいた。  雀から少し離《はな》れたところに、動くものがいた。それは……、 「象《ぞう》だ……」  見覚えのある象が、湖の中に静かに立っていた。雀の元の世界にいる象よりも、身体《からだ》が青っぽい。 「水神《すいじん》の象じゃねぇのか、あれ……」  水天《すいてん》の嫁取《よめと》りの時に見た水神の象は、二階建ての建物よりも大きく、細く長い硝子《がらす》のような足をしていたが、ここにいる象は、普通《ふつう》の大きさをしている。足も普通だった。だが、空色で皺《しわ》のあまりない綺麗《きれい》な身体をしていて、頭に小さな冠《かんむり》のような飾《かざ》りを載《の》せている。空色の象は、浅瀬《あさせ》にじっとしていた。 「なんて静かだ」  世界は、とても静かだった。わずかな風にさざめく水の波紋《はもん》の音さえ聞こえるようだった。だが、淋《さび》しい静けさでも、耳が痛《いた》くなるような静寂《せいじゃく》でもなかった。心がしんとするような、おだやかで透明《とうめい》なものに満ちていた。  空色の象の向こうには、水からちょっと突《つ》き出た白い岩があり、その上には五、六|歳《さい》の子どもが座《すわ》っていて、大きな本を読んでいた。僧侶《そうりょ》が着る法衣《ほうえ》のようなものを纏《まと》っている。  さらにその向こうの沖《おき》の方には小舟《こぶね》が浮《う》かんでいた。誰《だれ》かが乗っているようだった。しかし、それだけだった。それ以外には、この世界には何もなかった。あとはどこまでも、どこまでも、ただ静かだった。果てしのないその空間の先まで空気は澄《す》み切っていて、じっと立っていると全身が浄化《じょうか》され、透明《とうめい》になってしまうような気がした。  雀《すずめ》は少し迷《まよ》ったが、象《ぞう》に近づいて行った。  白い大地は固く、その上を砂《すな》が薄《う》っすらと覆《おお》っていた。シャリ、シャリと、草鞋《ぞうり》が砂を踏《ふ》む音がした。  象が、雀の方をゆっくりと見た。雀は、胸《むね》がドキドキした。 (変わった童《わらし》と思ったら、地球《ちきゅう》の者か) という言葉が、聞こえた。正確《せいかく》には、雀の頭に直接《ちょくせつ》伝わってきた。優《やさ》しい響《ひび》きだった。人の声のようであり、そうではない感じもした。言い表せないような感覚《かんかく》だった。  この象とは、意思の疎通《そつう》ができる……それ以上に雀が驚《おどろ》いたこと。それは、 「地球……? 地球って言った?」  そういう単語を使うというのが、雀にはひどく衝撃的《しょうげきてき》だった。  雀は、象と向き合った。雀を見つめる象の眼差《まなざ》しは、とても静かだった。この世界と同じように。 「こ、ここは……地球じゃないのか? じゃあ、ここはどこなんだイ?」 (ここは、ここであり、どこでもない)  問答《もんどう》のような答えが返ってきた。 「俺《おれ》は……地球から来たのか?」 (そうだ) 「じゃあ、大江戸《おおえど》って……どこなんだ?」 (大江戸は大江戸であって、どこでもない) 「……え〜と……。あなたは、誰《だれ》?」 (私《わたし》は、ここにいる者。永遠《えいえん》に佇《たたず》む者……) 「…………」  雀《すずめ》は、問答《もんどう》が苦手だった。さっぱり要領《ようりょう》を得ない。しかし、ひょっとしてこういう答えが「真理」というものなのではないかと感じた。 (神様なんだ……) と、雀は思った。 (この象《ぞう》が、天空の竜宮《りゅうぐう》の神様なんだ。ここは……あの水が湧《わ》き出る石の中なのかも知れない。この神様は、あそこに住んでいらっしゃるんだ)  神と向き合い、話していると思うと、雀は頭にカーッと血が昇《のぼ》った。思わず、 「あ、あの……。う、宇宙《うちゅう》ってどうなってんのかな!」 と、口走ってしまい、ハッとして慌《あわ》てて自分の口を塞《ふさ》いだ。 (何を訊《き》いてんだ、俺《おれ》は! そんなこと質問したからどうだってんだよ! そんなこと知りたいわけ、俺?)  雀は、青くなったり赤くなったりした。しかし、神は相変わらず静かに答えた。 (宇宙とは連鎖《れんさ》する次元であり、どこへでも行けるが、どこへも行けない……)  やっぱり、さっぱりわからない。 「……ありがとうございます」  こういう深遠《しんえん》なる問答は、鬼火《おにび》の旦那《だんな》あたりでないとわからないのだろう。しかし、雀はふと思いつき、もう一つだけ神様に問うてみた。 「俺が大江戸《おおえど》へ来た意味って……何なのかな……?」  そう言ってから、こういうことを神様に訊くのはずるいのかも知れないと、雀は少し後悔《こうかい》した。自分のためにも良くないのかも知れないと。  空色の象は、静かに雀を見つめた。別に雀を責《せ》めている風でもなかった。 (意味……とは、何か)  逆《ぎゃく》に質問されてしまった。雀は、軽く肩《かた》をすくめた。そんなこと、わかるわけがない。訊くだけ無駄《むだ》だったかなと思ったが、神は、 (流動する時間の中では、意味は自《おの》ずから見出《みいだ》すものである) と、付け加えた。 (意味があったと……それは、お前しか知らない……) 「…………」  その言葉は、雀《すずめ》の中に静かに、深く、深く沁《し》み込《こ》んだ。 「ありがとうございました」  雀は一礼し、鳥居《とりい》へと戻《もど》って行った。もう一度|振《ふ》り返《かえ》って、不思議な世界を眺《なが》める。  明るい、青い空の下、鏡のように青空を映《うつ》した湖は、まるで空に浮《う》かんでいるようだった。 「天空の湖だ……」  空気はどこまでも澄《す》み渡《わた》り、果てしなく静かな世界で神の象《ぞう》は永遠《えいえん》に佇《たたず》み、神の子は本を読むのだろう。  雀は、鳥居の外へ足を踏《ふ》み出した。  緑の森に、陽の光が斜《なな》めに射《さ》し込《こ》んでいた。小鳥たちが囀《さえず》り合っている。  振り向くと、鳥居の向こうには清らかな水をたたえた石柱が立っていた。 「時間がだいぶたってる。こっちの世界は早いんだな。……ってことは、俺《おれ》の元いた世界は、もっと早いってことか」  天空の湖で神と二言三言《ふたことみこと》言葉を交《か》わす間に、元の世界ではどれほどの時がたつのだろうと、雀は気が遠くなった。  森の入り口の草の上で、伊吹《いぶき》が長々と寝《ね》そべっていた。 「お、帰ってきたか」  伊吹は大あくびをして、う〜んと伸《の》びをした。雀は、その隣《となり》へ座《すわ》った。伊吹は、静かに言った。 「お前《め》ぇが森の中で何を見たか儂《わし》にはわからんが、それはお前ぇだけのもんじゃ。胸《むね》の中にしまっておくんだぞ」 「……うん」  雀《すずめ》は、不思議に思った。  伊吹《いぶき》は、なぜ雀をここへ連れてきたのだろうか。伊吹は、何を知って、また知らないでいるのだろうか。竜宮《りゅうぐう》の客人は、皆《みな》ここへ案内されるものなのだろうか。 (伊吹さんって……)  雀は、そこまで思ってやめた。 『意味があったと……それは、お前しか知らない』  神の言葉を反芻《はんすう》する。  竜宮のてっぺんからは、さらに雄大《ゆうだい》な景色《けしき》が広がっていた。美しい緑と、青。 「広いなぁ……」  ため息まじりに雀は言った。 「広いのぉ」  伊吹もしみじみと言った。  美しい世界は、美しい黄昏《たそがれ》に沈《しず》もうとしていた。夕陽が、すべてを黄金《こがね》色に染《そ》めてゆく。大江戸《おおえど》ではめったに見られない雄大な夕暮《ゆうぐ》れの様子、というだけでない感動が、雀の胸《むね》を揺《ゆ》さぶっていた。 [#改ページ] [#挿絵(img/04_162.png)入る]   神守《かみも》り、姿《すがた》を現《あらわ》す  二日目の夜。雀《すずめ》は伊吹《いぶき》とともに夏初《なつは》の家に招《まね》かれ、夏初とその母と祖母《そぼ》と、女たちの歓待《かんたい》を受けて、ほっこりと過《す》ごした。野菜と鶏《とり》の煮物《にもの》も、出し巻《ま》き卵も、優《やさ》しい味がした。  夏初が、雀の寝床《ねどこ》に蚊帳《かや》をかけ、そこに天空魚《てんくうぎょ》を放ってくれた。 「うわ〜っ、コリャ風流《ふうりゅう》だぁ」  行燈《あんどん》のぼんやりとした明かりに照らされて蚊帳の中をふよふよと、優雅《ゆうが》な鰭《ひれ》をひらめかせ漂《ただよ》う天空魚。それを眺《なが》めながら横になると、なんとも幻想《げんそう》的な気分になった。 「でも、寝《ね》ぼけて手とか当たったらどうしよう?」 「大丈夫《だいじょうぶ》よ。この子たちは、雀さんの手が動くちょっとの空気の流れにも押《お》されちゃうから」 「そうか、結局天空魚には俺《おれ》の手は届《とど》かないってわけだ」  雀は安心した。この中には蘭秋《らんしゅう》の元にゆく「紫《むらさき》」も混《ま》じっている。傷《きず》でもつけたら大変だ。 「こんな風に、毎日天空魚の泳ぐ部屋《へや》で寝てるお大尽《だいじん》もいるんだろうなー」 と、大尽気分で雀が言うと、夏初はクスクスと笑った。雀は、布団《ふとん》の上に正座《せいざ》して夏初と向き合った。 「夏初ちゃん、天空の竜宮《りゅうぐう》に招待《しょうたい》してくれて本当にありがとよ。モウ、すっげぇ楽しかったし、いろいろ勉強したよ」 「良かった……。そう言ってもらえると嬉《うれ》しい。雀さんに恩返《おんがえ》しができたのね。あの時は、あたし、どうなってしまうんだろうって怖《こわ》かったの。あの大きな蛇男《へびおとこ》を怖がって、知らんぷりして通り過《す》ぎる人もいたわ。それが悲しかった。雀さんがやめろと言ってくれて……嬉《うれ》しかった。村からは勝手に出ちゃダメだってキツク言われてたのに黙《だま》って行っちゃったから、何かあったらどうしよう、どうしようって……。助けてくれて、本当にありがとう」 「ハハ。俺《おれ》は何もしてないのも同然だけどな」  雀《すずめ》は頭を掻《か》いた。夏初《なつは》は首を振《ふ》った。 「雀さんが来てくれたから、百雷《ひゃくらい》様が来て下さったのよ。そして、太夫《たゆう》が来て下さったの。……はっ、そうだ! あたし、伊吹《いぶき》さんにも訊《き》くのを忘《わす》れていたわ!」 「何?」 「太夫は、あの後、大丈夫《だいじょうぶ》だったの?」 「ああ! ハハハ、全然平気!」 「良かった」 「あんだけ酒|呑《の》んで平気なんて、やっぱり太夫は妖怪《ようかい》だよな! しかも、百雷の旦那《だんな》に具合が悪そうなフリしてしなだれかかっちゃって……。俺《おれ》、もー太夫の心配なんかしねー」 「まあ、雀さんったら」  小さな部屋《へや》に、花のような笑い声が舞《ま》った。その花の間を、天空魚《てんくうぎょ》たちが軽やかに泳いでいた。  翌日《よくじつ》。生みたての卵で卵かけ飯を三|杯喰《ばいく》い、村長に挨拶《あいさつ》しに行き、夏初や役場の皆《みな》に見送られながら、雀は伊吹《いぶき》とともに竜宮《りゅうぐう》を後にした。  手には「紫《むらさき》」の入ったギヤマンの風呂敷《ふろしき》包み、背《せ》の風呂敷《ふろしき》の中には村長から百雷への反物《たんもの》の贈《おく》り物《もの》、そして懐《ふところ》には、竜宮《りゅうぐう》のことを書《か》き綴《つづ》った手帳。雀は、ほくほくと歩いた。 「楽しかったな〜。また遊びに来たいなぁ」 「そん時は、役場|宛《あて》に文を送るがええ。迎《むか》えに行くぞ」 「ほんと? ヤリー」  一番下の広場まで来ると、雀は上を見上げた。てっぺんの鎮守《ちんじゅ》の森まで、建物だの階段《かいだん》だの橋だの畑だのが積み上げられている。それは一つの建物のように見えた。 「そうか。だから�城《しろ》�って呼《よ》ばれるんだな」  ここは、一つの岩の上に作られた、まごうことなき一つの世界だった。そしてこの世界は、もう一つの世界を内包していた。 (ひょっとしてこの竜宮城《りゅうぐうじょう》は、あの天空の湖を守るための城壁《じょうへき》なんじゃないだろうか)  そんな考えが、頭をよぎった。  あの、白木の大|階段《かいだん》のてっぺんまで下りてきた。 「じゃあ、行くかの、雀《すずめ》」 「うん」 「大首《おおくび》ンとこにゃあ、知らせがいっとるからな。途中《とちゅう》まで桜丸《さくらまる》が来るかも知れんの」  伊吹《いぶき》は雀を抱《かか》えると、ふわりと飛び上がった。 「桜丸が来ても、伊吹さんが大江戸《おおえど》まで送ってくれよ? 紫《むらさき》がいるから、桜丸の飛ぶ速さじゃ、紫がびっくりしちまうかも知れねぇ」 「アハハハ。そりゃそうかも知れんの。アハハハ」  来た時と同じ空路を戻《もど》る。伊吹は狭《せま》い渓谷《けいこく》を抜《ぬ》け、川に沿《そ》って谷を飛んだ。 「今日《きょう》もいい天気だな〜」  雀《すずめ》は、のんびりと景色《けしき》を楽しんでいた。  しかし、それは、大江戸の町|並《な》みが見えた頃《ころ》起こった。  あと一山|越《こ》えれば大江戸という辺りだった。  伊吹が、急に高度を下げた。 「……どうしたイ、伊吹さん?」  雀が首を回して伊吹の顔を見ると、そこにはまるで別人のように厳《きび》しい表情《ひょうじょう》をした伊吹がいた。鋭《するど》い眼差《まなざ》しが、キョロキョロと辺りを窺《うかが》っている。 「伊吹《いぶき》さん?」  グン! と、速さが増《ま》した。あっという間に地面が近づいてきた。 「!」  雀《すずめ》は、「紫《むらさき》」の風呂敷《ふろしき》包みを抱《かか》え直した。 (こんなスピードが出るなんて!? 天空人魚《てんくうにんぎょ》は飛ぶ速度が遅《おそ》いとか言ってなかったっけ?)  雀は混乱《こんらん》した。  スタッと、二人《ふたり》は地面に降《お》り立った。その瞬間《しゅんかん》———、  バン! という衝撃《しょうげき》が空気を震《ふる》わせた。 「!?」  雀が見ると、伊吹《いぶき》の右手の甲《こう》に何かの札が貼《は》り付いていた。 「チッ!!」  伊吹は、歪《ゆが》んだ顔で舌《した》打ちした。それから、雀をドンと突《つ》き飛《と》ばした。 「逃《に》げろ!」 「え、ええっ?」 「いいから逃げろ! 森の奥《おく》へ行け、早く!!」  辺りの空気が寒いほど緊張《きんちょう》している。何かがいる! 「で、でも、伊吹さん!」 「お前《め》ぇがいると、邪魔《じゃま》だ!」  それは、竜宮《りゅうぐう》にいた時の伊吹ではなかった。あの薄《うす》ら笑《わら》いも、のんびりした物言いも無い。どこかで何者かとすり替《か》わったのではないかと思うほどだった。  次の瞬間《しゅんかん》、黒い影《かげ》が三つ、伊吹《いぶき》の周りにドッと降りてきた。 「忍者《にんじゃ》!」  大木の陰《かげ》からその様子を見た雀は、それが「影者《かげもの》」と呼《よ》ばれた者と似《に》ていると思った。  影者とは、名家に仕え、その家の重要人物に付き、護衛《ごえい》や情報収集《じょうほうしゅうしゅう》を行う特殊技能者《とくしゅぎのうしゃ》である。雪消《ゆきげ》を攫《さら》った、名家|保坂《ほさか》家の影者は、爪《つめ》の先から顔までも黒い姿《すがた》で、眼《め》だけが金色に光っていた。 「似てる。あの時の影者とよく似てる! こいつら忍者だ。どっかの家の?」  三体の影者《かげもの》は、やはり全身黒い装束《しょうぞく》に身を包んでいた。保坂《ほさか》の影者と違《ちが》うといえば、それぞれ、一本線、三本線、十字の模様の面をつけていること。人型のようだが、中身はわからない。一本面は異様《いよう》に手が長い。三本面は大柄《おおがら》。十字面は小柄《こがら》だった。三つの影は、伊吹《いぶき》を取り囲んだ。 「あの札……!」  なぜ伊吹は飛んで逃げないのか? 「あの札だ! 多分、伊吹さんの飛ぶ力を封印《ふういん》する札なんだ!」  雀《すずめ》は、ハッとした。 「まさか……。俺《おれ》と[#「と」に傍点]一緒《いっしょ》のところ[#「のところ」に傍点]を狙《ねら》われた? でも、なんで?」  伊吹の首に、後ろから赤いものが巻《ま》きついた。三本面が吐《は》いた長い舌《した》だった。 「あ、あぶな……!」  しかし、伊吹は俊敏《しゅんびん》な動きで身体《からだ》を捻《ねじ》った。その瞬間《しゅんかん》、舌がスパッと切れた。三本面が、「ゲゲッ!」と呻《うめ》いてよろめく。  伊吹の左手の着物の袖《そで》から、白刃《はくじん》がその鋭《するど》い切っ先を覗《のぞ》かせていた。雀は、仰天《ぎょうてん》した。 「仕込《しこ》み刀《がたな》!! あの人、いったい何者なんだ!」  一本面と十字面が、伊吹に襲《おそ》いかかる。伊吹は巧《たく》みに体をかわしつつ、見事に応戦《おうせん》した。 「すげえ! カッコイイ!」  思わず呑気《のんき》なことを言ってしまった雀だが、妙《みょう》な気配にハッと振《ふ》り向くと、雀のすぐ近くに、もう一人の影者が立っていた。面の模様《もよう》は黒丸だった。 「!」  カッ! 黒丸面から伸《の》びた黒い爪《つめ》が、木に刺《さ》さった。雀は間一髪《かんいっぱつ》でそれをかわした。 「あっぶねぇ……! 紫《むらさき》に当たったらどうすんだ!」  雀は、黒丸面を睨《にら》み据《す》えたまま、慎重《しんちょう》に「紫」を木の根元に置いた。黒丸面からは、殺気は感じない。どうやら雀を殺そうとはしていないようだ。深手を負わせて捕《と》らえるつもりらしい。  雀が、じりっと木から離《はな》れた瞬間、またも黒い爪が伸びてきた。  ザクッ! 爪《つめ》は、雀《すずめ》がすばやく背《せ》から正面に回した風呂敷《ふろしき》包みに刺《さ》さった。中に包んだ反物《たんもの》が役に立ってくれた。雀は、爪が刺さったままの風呂敷をクルクルッと回転させてから思い切り相手に投げつけ、同時にその場からダッと逃《に》げ出した。 「どうしよう? 捕《つか》まるわけにはいかねぇ。奴《やつ》ら、俺《おれ》を人質《ひとじち》にする気だ! このまま逃げ切れるかな?」 と思った瞬間《しゅんかん》、雀の目の前には、黒丸面の影者《かげもの》が立っていた。 「……そんなに甘《あま》くねぇよな」  ドン! という衝撃《しょうげき》とともに、雀は伊吹《いぶき》の目の前まで吹《ふ》っ飛《と》んだ。ドターンと、地面に転がる。 「雀!」 「……ってえええ〜〜〜っ!!」  どこを殴《なぐ》られたとかいうものではなく、雀の全身がガンガンと悲鳴を上げた。 「車にぶつかられたみてぇだ!」 「おとなしくせよ、神守《かみも》り!」  雀の背中を踏《ふ》みつけて、黒丸面が言った。やはりしわがれたような声をしていた。 「カミモリ……?」 「おとなしく同行すれば、命までは取らぬ。この者もな」  そう言われた一瞬《いっしゅん》、伊吹の動きが鈍《にぶ》った。そこを突《つ》いて、小柄《こがら》な十字面が伊吹の首元をパンと張《は》った。とたんに、伊吹は地面に潰《つぶ》れるように倒《たお》れた。 「い、伊吹さんっ……!」  伊吹の首に、また何かの札が貼《は》られていた。 「くっそ……! 重ぇっ!」  伊吹は懸命《けんめい》に起き上がろうとしたが、かなわなかった。 「天空人魚《てんくうにんぎょ》には、普適《ふつう》の重さでも動けぬほどだろう」  影者たちが、仮面の向こうで笑った。 「俺がいたせいで……!」  雀《すずめ》は、拳《こぶし》を握《にぎ》り締《し》めた。  その時。  影者《かげもの》たちが、何かの気配にハッとした。  次の瞬間《しゅんかん》。  ドカ———ッ!! と、黒丸面の頭めがけ、桜丸《さくらまる》が降《ふ》ってきた。 「桜丸!!」  雀は、嬉《うれ》しくて絶叫《ぜっきょう》した。  倒《たお》れた黒丸面を踏《ふ》みつけにして、桜丸が不敵《ふてき》に笑いながら言った。 「コレサ。なんの騒《さわ》ぎだエ?」 「魔人《まじん》!」  残りの影者たちがいっせいに武器《ぶき》を構《かま》えたが、桜丸が口元で右手をかざし、「フッ」と息を吹《ふ》くと、それは目に見えるほどの風の塊《かたまり》となって影者たちを直撃《ちょくげき》した。 「グワアッ!」  影者たちは、胸《むね》や腹《はら》に風を当てられ弾《はじ》き飛ばされた。雀も伊吹《いぶき》も呆気《あっけ》にとられた。 「すげ……一瞬《いっしゅん》でやっつけちまった。カッコイー……」  喧嘩《けんか》が強いとは知っていたが、いつもはダラダラ遊んでばかりいる桜丸の、「魔人」としての本領《ほんりょう》を、雀は初めて見た。 「ハ。さすが魔人はスゴイもんじゃ」  伊吹は、冷《ひ》や汗《あせ》をかきながら苦笑いした。 「ひ、退《ひ》け!……! 退け」  倒れた黒丸面をすばやく抱《かか》え、影者たちは霧散《むさん》するように消えた。  森に静けさが戻《もど》った。 「大丈夫《だいじょうぶ》か、雀?」  雀は、桜丸に抱《だ》き起こされた。身体《からだ》中がジンジンと痛《いた》むが、頭も骨《ほね》も大丈夫なようだった。 「んん、なんとか」 「ヤレ、間に合って良かったぜ」 「伊吹《いぶき》さんは?」  桜丸《さくらまる》に封印《ふういん》の札をはがしてもらうと、伊吹も身体《からだ》を起こすことができた。 「いやぁ、重かった。死ぬかと思うた。お前《め》ぇらは、あんな重さの中で暮《く》らしとるのか。すごいのぅ」  伊吹は軽く笑ったが、 「伊吹さん……」 と、雀《すずめ》に見つめられて、複雑《ふくざつ》な顔をした。 「あいつら影者《かげもの》だろ? なんで伊吹さんを狙《ねら》うんだ?」 「鬼火《おにび》の旦那《だんな》から情報が入ったのヨ。伊吹が襲《おそ》われるかも知れんってな」 「なんで?」 「お前ぇ、神守《かみも》りだろ。伊吹」  桜丸にそう言われ、伊吹は俯《うつむ》いた。 「カミモリって何だ?」 「�守《も》り役《やく》�のことよ。保坂《ほさか》の三太郎を守ってた影者がいたろう。基本的に、あれと同じだ。そのものを守るための存在《そんざい》。大名家《だいみょうけ》にゃあ、家宝守《かほうも》りや刀守《かたなも》りがいたりする。京都《きょうと》あたりにゃあ、花守《はなも》りなんて粋《いき》な守り役がいるって話だぜ。神守りは、文字通り神を守るための存在なのヨ」  雀は、伊吹を見た。伊吹は、仕込《しこ》み刀《がたな》をしまっていた。それはどうやら、左右の二《に》の腕《うで》に取り付けられているようだった。伊吹は、日|頃《ごろ》からずっと武装《ぶそう》していたのだ。役場の上司や同僚《どうりょう》に叱《しか》られ、職人《しょくにん》たちからバカにされながら。 「神を守る……? 神官じゃなくて?」 「神官は、神との交渉人《こうしょうにん》サ。神守りは、珍《めずら》しかないぜ。大江戸《おおえど》の寺や神社にもたまにいる。表にいる警備係《けいびがかり》じゃなくて、陰《かげ》から御神体《ごしんたい》の警備をする武闘派《ぶとうは》のことだ」 「御神体の警備……。じゃ、伊吹さんが守っているのは、あの石か!?」  竜宮《りゅうぐう》の鎮守《ちんじゅ》の森の、鳥居《とりい》の向こうにぽつんと立っている小さな石の柱。だがそこからは、滾々《こんこん》と清浄《せいじょう》な水が湧《わ》き出ている。そしてそこには、神がおわす。 「無限水《むげんすい》の石じゃ」  伊吹《いぶき》が、おだやかな笑顔《えがお》で言った。 「あれがあるから、竜宮《りゅうぐう》は豊かに暮《く》らしていけるんじゃ」 「やっぱり。でも……神様を守る奴《やつ》を狙《ねら》うなんて……。それって、神様を狙っているってことか? そんなこと、していいのか?」 「無限水の石は、竜宮の守り神じゃねぇのヨ」 と、伊吹が言った。 「えっ? そうなんだ?」 「前にも言ったろう、雀。竜宮は風神《ふうじん》の領域《りょういき》だ。属《ぞく》する神サマは風神なのよ」 と、桜丸《さくらまる》も言った。雀は、役場に行った時のことを思い返した。 「……そういえば……役場に風天宮《ふうてんぐう》の神棚《かみだな》があったような……」  桜丸は続けて言った。 「確《たし》かに天空の竜宮ってとこは風の領域なんだが、水の影響《えいきょう》もかなりあるとこだ。そのことと無限水の石とは直接関係はねぇんだが、無限水に宿るものが神霊《しんれい》であることは間違《まちが》いねぇ。それは誰《だれ》かやどこかに影響《えいきょう》を与《あた》える神じゃなく、存在《そんざい》が神域《しんいき》のモノってぇやつなんだよ」 「ん〜……」  雀には難《むずか》しい話だった。 (あの水神《すいじん》の象《ぞう》みたいなのは、竜宮を守っているんじゃねぇのか……)  それでも、無限水の石は、無限に水を生む石。それさえあれば、どんな荒地《こうち》でも生き物を養《やしな》える。 「でも……」  首を捻《ひね》る雀に、桜丸が答えた。 「狙《ねら》われた理由は、水じゃねぇ。石が持つ�空間を曲げる力�だろうなぁ」 「空間を曲げる力……」 「お前《め》ぇは見たから知ってるだろうが、石そのものは小さいはずだ。それが、あのバカでけぇ大岩をすっぽり守ってる。別の次元にある地域《ちいき》ってのは他《ほか》にもあるが、天空の竜宮《りゅうぐう》という次元へは、許《ゆる》された者しか入れねぇのよ。そこに無限《むげん》に湧《わ》く水があったら、そこぁ、鉄壁《てっぺき》の要塞《ようさい》になると思わねぇか? 竜宮が竜宮|城《じょう》と呼《よ》ばれるなぁ、そういう意味もあるのサ。しかもあの大岩は移動可能《いどうかのう》らしいぜ。なぁ、神守《かみも》りよ」  伊吹《いぶき》は、苦く笑った。 「あそこが要塞になるなんざ、バカげた話じゃ」 「そ、そうだよ。あんな……夢《ゆめ》みたいないい場所が戦《いくさ》なんてさ! 村の人もみんないい人ばっかりで、静かでさ!」  桜丸《さくらまる》は肩《かた》をすくめた。 「そんなこたぁ、石を狙《ねら》う奴《やつ》にゃあどうでもいいんだよ。石さえありゃあ、鉄壁の空中移動要塞ができるってことが大事なんだ。だが、石を手に入れるにゃあ、竜宮に入らなきゃならねぇ。それには、神守りの許可《きょか》がいるんだ」  桜丸は伊吹を指差した。 「許可……」 「竜宮の外の者は、石の力に選ばれた神守りと一緒《いっしょ》に門をくぐらねぇと、竜宮には入れねぇ。いくら影者《かげもの》でも、魔人《まじん》ですら、あの壁《かべ》は外から破《やぶ》れねぇのよ」  あの白木の大|階段《かいだん》のてっぺんでのことを、雀は思い返した。神の与《あた》えた試練《しれん》だとか、くだらないやりとりをした。あれは、一種の「儀式《ぎしき》」だったのではないだろうか。  伊吹は、空を見上げた。森の緑の向こうに広がる青空。この大空は、天空の竜宮の空と重なっている[#「重なっている」に傍点]。 「無限水の石の存在《そんざい》とその本当の力は、誰《だれ》にも知られていないはずじゃった。天空の竜宮は、もともとああいう[#「もともとああいう」に傍点]場所だったと。同じように別の次元にある場所は他にもたくさんある。そこにも神がおわしたり、力を持つ何かがあったりする。神守りに選ばれて、陰《かげ》からずっと石を見守ってきたが、まさか儂《わし》の代で、こんなことになろうとはの。この大江戸《おおえど》で、この日本で、誰があれを欲《ほ》しがるんじゃ」  伊吹《いぶき》は拳《こぶし》を握《にぎ》った。 「水野|大老《たいろう》だヨ」  桜丸《さくらまる》の言葉に、雀《すずめ》も伊吹もぎょっとした。 「大江戸|城《じょう》の重鎮《じゅうちん》!」 「確証《かくしょう》はねぇがな」  桜丸は小さく肩《かた》をすくめた。 [#改ページ] [#挿絵(img/04_183.png)入る]   向こうにも荒神様《こうじんさま》  雀は桜丸におぶわれて、伊吹は「紫《むらさき》」を抱《かか》えて大江戸に向かった。異常《いじょう》を察して、「紫」はギヤマンの器《うつわ》の底で震《ふる》えていた。 「もう大丈夫《だいじょうぶ》じゃ、紫。もうすぐ新しい飼《か》い主ンとこに行くからな。優《やさ》しくて綺麗《きれい》なお人だぞ〜」  伊吹は飛びながら、そう声をかけた。 「うさ屋」の二階で、鬼火《おにび》の旦那《だんな》が待っていた。 「雀《すずめ》が世話になったの」 「こちらこそ、あぶねぇとこを助けていただき、旦那《だんな》と桜丸《さくらまる》にゃあ感謝《かんしゃ》いたします」  伊吹は、旦那の前で少し緊張《きんちょう》しているようだった。顔が神守《かみも》りの顔になっていると、雀は思った。  雀と、細かな傷《きず》を負っていた伊吹も手当てを受けた。  旦那に苦い薬を飲まされて顔を顰《しか》めながら、雀は言った。 「水野《みずの》様って……マジで?」 「まぁな」  旦那は、煙管《きせる》を吹《ふ》かした。 「水野|大老《たいろう》といやぁ実力者だが、最近めっきり衰《おとろ》えたってぇ、もっぱらの噂《うわさ》だ。もっとも、こんな話は大江戸《おおえど》っ子《こ》にゃあ、どうでもいいこったが」 「アア。どうでもいい」  桜丸が寝転《ねころ》んだまま言った。 「大江戸城の中の力関係が多少上下しようが、何も変わらねぇ。大名どもが束《たば》になったって、東西南北四つの力を押《お》さえている将軍《しょうぐん》にゃあ、かないっこねぇンだ。もし、大江戸の将軍が倒《たお》れるなんてぇことがあったら、それは日本を支《ささ》える力の一角が崩《くず》れることで、この世界は大|混乱《こんらん》になる」  旦那の話に、雀はごくりと息を呑《の》んだ。旦那は、煙《けむり》を吐《は》きながら言った。 「そんなことになったら厄介《やっけえ》もっけぇだ。面倒《めんど》くせぇ」 「面倒くせぇのかヨ!」  旦那は、ここで一息間を置いた。灰吹《はいふ》きの縁《ふち》で、煙管《きせる》をコンと叩《たた》く。 「話はついた。もう心配いらねぇ」 「…………」  雀も伊吹も、きょとんとした。 「え? 話はついたって? この事件《じけん》はこれで終わりってこと?」 「そうだ」  旦那《だんな》は軽く言った。 「……」  雀《すずめ》と伊吹《いぶき》は顔を見合わせた。 「相手は水野《みずの》様……だろ?」 「大老《たいろう》だろうが何だろうが、上から釘刺《くぎさ》してもらったからなぁ。当分動けめぇヨ」  旦那は、煙管《きせる》をフッと吹《ふ》いた。 (水野大老に釘を刺せる奴《やつ》なんて……上様っきゃいねーんじゃねぇの?)  雀はそう思って、ちょっと首筋《くびすじ》がヒヤリとした。将軍《しょうぐん》にそう話を通した者は、いったい誰《だれ》か? そう思うと、雀の首筋はさらにヒヤリとした。 (将軍に……!)  雀は、チラッと旦那を見て、それからチラッと伊吹を見た。伊吹も何か考え込《こ》んでいるように、眉間《みけん》に皺《しわ》が寄《よ》っていた。 「伊吹、当分心配ねぇとはいえ、これからは充分《じゅうぶん》気をつけるこった。どうも……、水野の懐《ふところ》に魔道士《まどうし》が入り込んだらしいからヨ」 「魔道士?」 「魔人《まじん》じゃなくて?」  伊吹と雀は、また顔を見合わせた。 「もともと魔道士ってのは、外地からの渡来人《とらいじん》でな。修行《しゅぎょう》によって魔力《まりょく》を身につけた奴だ。よほどの才能《さいのう》と忍耐《にんたい》がなけりゃモノにならねぇが、中には魔人と同格《どうかく》、あるいはそれ以上の使い手がいると聞く」 「マジで?」 「その魔道士が、大江戸の大老になんの縁《えにし》で?」 「さぁて……。偶然《ぐうぜん》ここへ来たか、何か目的があってのことか……。衰《おとろ》えた大老は、ただ単にそいつを右|腕《うで》にして、他の大名に対抗《たいこう》したいのか……。とにかく、衰えたりとはいえ喰《く》えねぇ古妖怪《ふるようかい》と魔道士の組み合わせなんざ、ぞっとしねぇ」 「向こうにも荒神様《こうじんさま》ってわけだ」  桜丸《さくらまる》は、歪《ゆが》んだように笑った。 「紫《むらさき》」は伊吹《いぶき》から餌《えさ》をもらい、元気を取り戻《もど》した。うさ屋の二階で放されて、広い座敷《ざしき》を気持ち良さそうに泳いでいる。  雀《すずめ》も、ポーが持ってきてくれた菊屋《きくや》の大福を食って、ようやく元気が戻ってきた。旦那《だんな》にもらった薬が効《き》いたのか、身体《からだ》の痛《いた》みも引いた。 「大変だったネ、伊吹サン」  そう言うポーに、伊吹は頭を下げた。 「雀を巻《ま》き込《こ》んで、申し訳《わけ》なかったの」 「ううん! 伊吹さん、カッコ良かったぜ〜! 昼は役場の下《した》っ端《ぱ》、夜は凄腕《すごうで》の殺し屋の『必殺仕事人』みてぇだ!」 「ナンだぇ、そりゃ!?」  桜丸《さくらまる》もポーも笑った。伊吹も薄《う》っすらと笑った。雀は、ハッと思いついた。 「そうか……。伊吹さんの許可《きょか》がないと竜宮《りゅうぐう》へは入れないんだよな。だから伊吹さんは、下っ端なんだ!」  伊吹は頷《うなず》いた。 「その通り。外から来る客人を案内するのが、下っ端の仕事じゃ」 「大名家に仕える刀守《かたなも》りとかも、普段《ふだん》はまったく目立たない下級|武士《ぶし》だっていうからねぇ。竜宮の門は、常《つね》に伊吹サンと一緒《いっしょ》でないとくぐれないのかイ?」 「いや。一度門をくぐれば、あとは儂《わし》と一緒でなくてもいいんじゃ」 「竜宮が、神守《かみも》りの守るお宝《たから》がある神秘《しんぴ》の場所だとは思わなかったなぁ。ボクも行きたくなったよ」  軽く笑うポーを見ながら雀は思った。 (ポーがあの場所へ行ったら……何が見えるんだろう? やっぱり神様の象《ぞう》が見えるのかな?)  午後|遅《おそ》く、伊吹《いぶき》と雀《すずめ》は「紫《むらさき》」を蘭秋《らんしゅう》に届《とど》けた。蘭秋は、「紫」を大そう気に入ったようだった。  日吉座《ひよしざ》からの帰り道、雀は伊吹と話した。 「伊吹さんが神守《かみも》りってことは、誰《だれ》にも知られてないのかイ?」 「知っとるのは、村長と刀自《とじ》だけじゃ」 「トジって?」 「普通《ふつう》は内儀《ないぎ》さんのことを言うが、この場合は女の祈祷師《きとうし》のことをいう」 「神守りには、どうやって選ばれるんだイ?」 「刀自が、神の力を借りて村の者の中から選ぶのよ。竜宮《りゅうぐう》のような地方の村にゃあ、東西南北の神を祀《まつ》る神官の他《ほか》に、土地神の世話役がいることが多いんじゃ。土地神とは、神の領域《りょういき》のモノってだけで力も何も揮《ふる》わねぇモノじゃがな、うちの無限水《むげんすい》の石みてぇに。コゥ……世界に影響《えいきょう》を及《およ》ぼす力そのもの…じゃなくて、むしろ道具[#「道具」に傍点]って感じじゃな」 「道具……」 「こういうのは、他の場所にもあるんじゃ。大出雲《おおいずも》の白鷺城《しらさぎじょう》は、でっけぇ飛行石の上に建っとるっていうし、海の竜宮は水晶《すいしょう》の中にあるって話じゃ。その飛行石も水晶も、無限水の石と同じモンでねえかと思うんじゃ」 「なるほど〜」 「そして、きっと儂《わし》と同じような神守りがいる……」  夏の大江戸《おおえど》には燦々《さんさん》とした太陽の光が降《ふ》りそそぎ、大通りを埃《ほこり》っぽい風が吹《ふ》いていた。金魚や風鈴《ふうりん》を売るぼて振《ふ》りが行き来している。平和でおだやかな午後。そろそろ太陽も傾《かたむ》く頃《ころ》だ。  伊吹は、ふと立ち止まった。 「神守りは、いざという時に神を守って戦うもんじゃが……いざという時が来るとは思わんかった。恐《おそ》れをなしたわけじゃねぇが……」  あの美しく静謐《せいひつ》な場所をおびやかす存在《そんざい》がある。 「村長が……夏初《なつは》が黙《だま》って竜宮を出たことをえらく怒《おこ》っての。万が一|誰《だれ》かに狙《ねら》われたらどうするんじゃと。あん時ゃ、夏初《なつは》が年頃《としごろ》の女子《おなご》だからって意味じゃと思うたが……。村長は、こういうことを心配しとったんじゃなぁ。むかぁし、刀自《とじ》から言われたことを思い出したよ。誰《だれ》かを盾《たて》にされても、神守《かみも》りは神を守らねばならんとな。そんなことはないと思うが、覚悟《かくご》だけはしておけと……」  守らねばならぬものがあるのなら、千に一つ、万に一つの「もしも」のために、注意と準備《じゅんび》と、覚悟はしておかなくてはならないのだ。 「厳《きび》しいの……」  伊吹《いぶき》は、ようやくそれを実感した。 「……大丈夫《だいじょうぶ》だよ」  雀《すずめ》は、伊吹の手をぎゅっと握《にぎ》った。 「旦那《だんな》が心配いらねぇと言ったんだ。心配いらねぇさ」  くりっとした瞳《ひとみ》で見上げてくる雀を見て、伊吹の口許《くちもと》もゆるんだ。 「鬼火《おにび》ってな、何者じゃ? 話はついたって、誰に話したんじゃ? そんなもん、一人《ひとり》しかおらんじゃねぇか」 「だよね〜」 「その方が、よっぽど恐《こ》ぇ話じゃ!」 「だよね〜」  雀と伊吹は笑いながら、大江戸《おおえど》の大通りを歩いて行った。  それからしばらくたって、大首《おおくび》のかわら版《ばん》屋から『天空の竜宮見聞録《りゅうぐうけんぶんろく》』が売り出され、久々《ひさびさ》の雀の見聞録よと評判《ひょうばん》になった。  大江戸っ子たちは、白木の大|階段《かいだん》と空中に浮《う》かぶ大岩に驚《おどろ》く雀に大笑いし、色とりどりに美しく描《えが》かれた天空魚《てんくうぎょ》が宙《ちゅう》を舞《ま》い踊《おど》る様に、うっとりとした。天空魚の飼育職人《しいくしょくにん》を目指す夏初《なつは》も紹介《しょうかい》された。大根畑を耕《たがや》すヤノ輔《すけ》どんも。 「紫《むらさき》」は、雪消《ゆきげ》の牢内《ろうない》で飼《か》われている。いつもは雪消の文机《ふづくえ》の上に置かれたギヤマンの器《うつわ》の中にいて、夜、蘭秋《らんしゅう》が稽古《けいこ》を終え、餌《えさ》を持ってやって来ると器から放される。「紫」は嬉《うれ》しそうにふよふよと牢を出て、蘭秋のもとへ泳いでゆく。それは、雪消にも蘭秋にも楽しみな日課となった。 「この世界を形作っているのは、東西南北を流れる澱《よど》みのない�気�だ。気には、そこに生きる者の命や生活によって生まれる力も含《ふく》まれる。だから、大勢《おおぜい》の者が、澱みのない気を発しながら生きていることが肝心《かんじん》なのよ。それは大江戸《おおえど》も大浪速《おおなにわ》も同じ。そして、空の竜宮《りゅうぐう》も海の竜宮も、京都《きょうと》も東北《とうほく》も同じなんだ」  涼《すず》しい風の通る、うさ屋の二階。風鈴《ふうりん》の吊《つ》るされた窓辺《まどべ》に頬杖《ほおづえ》をついて話す鬼火《おにび》の旦那《だんな》。雀《すずめ》はプリンを喰《く》いながら、その話に耳を傾《かたむ》けていた。 「だから、無限水《むげんすい》の石のあるあの場所にも人が住んでいるんだな」 「そうだ。そうやってあの世界は保《たも》たれているのサ」  雀《すずめ》は、伊吹《いぶき》が言った言葉を思い返した。 『この大江戸で、この日本で、誰《だれ》があれを欲《ほ》しがるんじゃ』  その者[#「その者」に傍点]は、すなわち「世界を壊《こわ》そうとしている」のか?  平和な大江戸。妖怪《ようかい》だらけでも、悪者も化け物も陰《いん》の気があっても、法治国家であり、それぞれが懸命《けんめい》に生きて、暮《く》らしてゆくことで世界を支《ささ》えている。身分や力のある者たちがお決まりの権力闘争《けんりょくとうそう》に明け暮れても、世界の存在《そんざい》そのものに手を出すことはないはず。 「でも……少なくともそいつは[#「そいつは」に傍点]、竜宮は壊《こわれ》れてもいいと思ったんだ。許《ゆる》せねぇよな」  憂《うれ》いのない世界などない。どんなに豊《ゆた》かな場所でも、うまくやっていけない者はいる。それでいい。その者は、他《ほか》の方法で頑張《がんば》ればいい———。 「だけど……全部|壊《こわ》すっていうのは許《ゆる》せねぇよ。そんなのは間違《まちが》ってる」  雀《すずめ》は、胸《むね》を張《は》って言った。 「俺《おれ》が言うのもなんだけど、間違ってるぜ!」  鬼火《おにび》の旦那《だんな》は、クスリと笑った。その黒い眼鏡《めがね》の向こう。雀は、確信《かくしん》する。 (心配ない。俺たちには、鬼火の旦那や桜丸《さくらまる》や八丁堀《はっちょうぼり》がついててくれる)  煙管《きせる》の煙《けむり》が、のんびりと夏の空へと立ち上ってゆく。 (向こうにも荒神様《こうじんさま》か知らねぇけど……。こっちの荒神様の方が断然《だんぜん》上サ!)  雀は、旦那に寄《よ》り添《そ》うように座《すわ》り直した。 「何だェ?」 「何でもない。へへへ」  二人《ふたり》は、揃《そろ》って大江戸《おおえど》の空を見上げた。そこには、今日もいろんなモノたちが行き交《か》っていた。  伊吹《いぶき》は、それからもちょくちょく仕事で大江戸に来た。たまに雀たちのもとに顔を出し、その時は皆《みな》で飯を喰《く》いに行った。相変わらず細い目で、伊吹は明るくおだやかに笑っていた。  その後、伊吹からはなんの異変《いへん》も聞かされていない。  皆心のどこかに微《ひそ》かに不安を残しつつも、変わらぬ日々、静かに明けて、暮れてゆく一日に感謝《かんしゃ》した。 「今度|竜宮《りゅうぐう》へ行く時は、桜丸に連れてってもらおう」  雀は、またあの極彩色《ごくさいしき》に彩《いろど》られた異国《いこく》の町に行く日を楽しみにした。 「その時はまた……神様の象《ぞう》に挨拶《あいさつ》に行こう」  神の象に会ったこと。神の象と話したことは、鬼火の旦那にも桜丸にも内緒《ないしょ》の、雀だけの秘密。  それは、伊吹から「お前だけのものだから」と言われただけではない、もっと大切な、もっと深い意味があるように思えるからだ。  雀《すずめ》がバタバタと大江戸《おおえど》中を駆《か》け回《まわ》っている時にも、あの天空の湖で、神の象《ぞう》は佇《たたず》み続けているのだろう。神の子どもは、本を読み続けているのだろう。空はどこまでも青く、湖はどこまでも広がっているだろう。  そして無限水《むげんすい》の石から湧《わ》き出《で》た水は、ひたひたと、ひたひたと、天空の竜宮《りゅうぐう》を潤《うるお》す。  意味があったと……。それは、お前しか知らない———。 「俺《おれ》は……意味のあった生き方をしなきゃならない。俺がこの世界に来た意味はこれだったんだと、そう思える生き方をするんだ……」  三度目の夏の空に、そう誓《ちか》う雀だった。 [#改ページ] 香月日輪(こうづき・ひのわ) 和歌山県に生まれる。「地獄堂霊界通信」シリーズ『ワルガキ、幽霊にびびる!』(ポプラ社)で日本児童文学者協会新人賞を受賞。『妖怪アパートの幽雅な日常㈰』(講談社)は産経児童出版文化賞フジテレビ賞を受賞し人気のシリーズとなっている。その他の著作に「エル・シオン」シリーズ(ポプラ社)、「ファンム・アレース」シリーズ(講談社)『下町不思議町物語』(岩崎書店)などがある。怪談本好きの大阪市在住。 [#改ページ] 底本 理論社 単行本  大江戸妖怪かわら版㈬  天空の竜宮城  著 者——香月日輪  2008年8月  第1刷発行  発行者——下向 実  発行所——株式会社 理論社 [#地付き]2008年11月1日作成 hj [#改ページ] 置き換え文字 噛《※》 ※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]「口+齒」、第3水準1-15-26 侠《※》 ※[#「にんべん+夾」、第3水準1-14-26]「にんべん+夾」、第3水準1-14-26 繋《※》 ※[#「(車/凵+殳)/糸」、第3水準1-94-94]「(車/凵+殳)/糸」、第3水準1-94-94 醤《※》 ※[#「將/酉」、第3水準1-92-89]「將/酉」、第3水準1-92-89 掴《※》 ※[#「てへん+國」、第3水準1-84-89]「てへん+國」、第3水準1-84-89 祷《※》 ※[#「示+壽」、第3水準1-89-35]「示+壽」、第3水準1-89-35 頬《※》 ※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]「夾+頁」、第3水準1-93-90 |※《さんずい》 ※[#「さんずい」、第4水準2-78-17]「さんずい」、第4水準2-78-17